
「トランジショナル・ジャスティス」とはなにか。
トランジショナル・ジャスティスとは、独裁や圧制から民主主義に基づく市民社会への移行のなかで、暴力や人権侵害の結果と取り組む努力を指す語だ。トランジショナル・ジャスティスは、敵対している社会集団の長期に渡る和解にも、民主的かつ平和な状況の確立にも重要な要素となる。四つの主要手段がトランジショナル・ジャスティスの中核をなし、これらは、第一に人権侵害の責任者に対する裁判、第二にいわゆる事実究明委員会(真実和解委員会)を通じたこうした犯罪の歴史的解明、第三に人権侵害の被害者に対する物質的・象徴的補償、第四に被告を公職から降ろす制度的改革である。トランジショナル・ジャスティスは、一国内でも、国際間でも、あるいは両方が混ざり合ったかたちでも行使される。
一九四五年以降広まったトランジショナル・ジャスティス
トランジショナル・ジャスティスの先例とされるのは、第二次世界大戦後、国際軍事法廷がナチ首脳に対しておこなったニュルンベルク裁判だ。戦争に勝った連合国四ヶ国のみが裁判を進めたという状況は、もちろんニュルンベルク裁判に対するドイツ国民の反発を招いた。同じようなことが、第二次大戦後、日本の軍指導部に対しておこなわれた東京裁判についても言える。このことは、その核心として体制崩壊後の社会内部の和解を目指すあらゆるトランジショナル・ジャスティス行為の基本的問題を示している。この目標達成が、こうした処置に対する社会的抵抗のために困難をきわめることが多いのだ。それはとくにトランジショナル・ジャスティスが外部から課せられたばあいに顕著である。1970年代と1980年代には、責任者の断罪を目的とするこのトランジショナル・ジャスティスの発想が、軍事政権から民主主義への移行の際に何度も用いられた。その例がギリシア(1975年)やアルゼンチン(1983年)である。だがトランジショナル・ジャスティスの発想が、大きくクローズアップされるようになったのは、なんと言っても世界的に独裁体制が次々に崩壊した1980年代末以降のことである。トランジショナル・ジャスティスが民主化の中核手段として発見されたわけで、それ以前に定着していた責任者の訴追だけでなく、先に挙げたほかの手段がますます大きな意味を持つようになった。つまり事実究明委員会(真実和解委員会)や体制機関に対する調査解明、とくに被害者の補償である。これらはみな、人権が世界の普遍的基準として広まってきたことと深く結びついている。
トランジショナル・ジャスティスの範例・雛型としてのドイツの補償
ドイツでは第二次大戦後、最初からトランジショナル・ジャスティスの諸手段が講じられた。そこから洩れていたのは、事実究明委員会(真実和解委員会)で、これはようやく数十年後、社会的和解の広範な手段となった。通例、事実究明委員会(真実和解委員会)は、加害者の訴追に代わる機能を果たし、それが設置されるのは、南アフリカのアパルトヘイト体制終焉の例にみられるとおり、新旧政治勢力のあいだで難航しながらも生まれた歩み寄りを礎に、和解が目指されるばあいである。こうした配慮は1945年以降のドイツでは、ナチ政権が完膚なきまでの敗北を喫したため、不要の様相を示していた。こうしてトランジショナル・ジャスティスの主旨を持つすべての処置は、まず戦勝連合国によっておこなわれたのである。
このことはナチ体制の犠牲者の補償についても言える。1945年以降、ドイツ側にもナチスに迫害された人々に対する補償という考えはあったが、アメリカ合衆国を筆頭とする西側連合国の要求はそれをはるかに上回るものだった。そのため1949年のドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立以前すでに、込み入った物質的補償体制の基盤が整い、今日までに600億ユーロ以上が支出されてきた。公正な補償の実施は、西側連合国にとって、徐々に固まりつつあった西ドイツ民主主義体制の重要な試金石だったのである。
補償の第一の支柱は、略奪ないし没収された私有財産の償還で、これはもっぱらユダヤ人を対象としたものだった。これとならび個人的損傷に対する補償がおこなわれた。さらに補償の第三の支柱として、1952年、イスラエルとユダヤ人賠償請求会議の合意にもとづく第三帝国に迫害されたユダヤ人の集団補償が加わったが、こうした処置はすべて、原則として1933年から1945年にかけてナチスの迫害の対象となった元あるいは現ドイツ国籍所有者だけを対象としていた。これらの人々は、ナチスに迫害された者のなかで比較的見通しのきく集団だったが、第二次大戦中、ナチスの人権蹂躙の標的となった第三帝国の国境の外にいた何百万人もの人々に目を向けてみると、規模は爆発的に増大する。ヨーロッパで戦争が吹き荒れるなか約3650万人の人間が命を失ったが、そのうち1900万人は非戦闘員であったからなおさらである。「通常」の戦争行為とナチスのテロ行為との境界は、流動的だったのである。
だが過去数十年のあいだに、外国の被迫害者の補償除外はどんどん破られ、それにより、ナチスに迫害された者への補償と従来型の戦争賠償とのあいだに引かれていた当初の境界が曖昧となった。1950年代末以降、ドイツ連邦共和国は西側12ヶ国と、これらの国のナチスの迫害にあった人々に対する包括補償について合意してきたのである。だが鉄のカーテンの外の被迫害者は、冷戦が終わるまでずっと対象外のままで、ようやく1990年に東西ドイツが統一してからその様相が変わった。やっとここ数年、東ヨーロッパにいるホロコースト生存者やドイツ戦時産業の元強制労働者も、小額とはいうものの補償を受け取ることができるようになったのである。
結論
ドイツ連邦共和国から補償を受けたほとんどの人々も、補償を受けることができなかった人々も、1945年以降は連邦共和国の外に住んでいたし、また補償の大部分は、ナチ独裁から戦後西ドイツ民主体制への移行が終了してからやっとおこなわれた。というわけでこの補償は、トランジショナル・ジャスティスの典型的な構図から少々外れるし、ナチスに迫害された人々に対する連邦共和国による補償を、西ドイツ民主化の手段と見なすこともほとんどできない。むしろこの補償は、連合国の強力な手助けのもと成功したリベラルで民主的な市民社会への変貌の結果おこなわれたものなのである。
それでも、ナチスに迫害された人々に対するドイツ連邦共和国の補償は、たびたび歴史的不当行為を贖う努力の参考とされてきた。その影響は、2002年に効力を発した国際法廷の権限規定にまで及び、国際法廷は加害者の断罪だけでなく、被害者の補償も決めることになった。だがおそらくもっと重要なのは、ドイツによる補償が、遠い過去の不当行為に対する補償要求の先例となったことだろう。その一例が目下アメリカ合衆国などでみられる奴隷労働の賠償請求である。言うまでもなくこの場合は、独裁制から民主制への移行段階における長期的和解が摸索されているわけではない。こうした要求は、歴史的人権侵害の結果と目される組織的不当行為に対する闘いなのである。
というわけで人権侵害の被害者に対する補償は、移行期にかぎって焦点があてられ、ふたつの異なる政治体制の難航しがちな交替を円滑にするものというだけに留まらない。それは、歴史的人権侵害の結果として生じる長期的争いの克服手段としても機能するのだ。
ボーフム・ルール大学現代史・時事科教授。
訳:M.A.
Copyright: Prof. Dr. Constantin Goschler
2007年4月









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