時宜に適った追悼のあり方 ― ドイツの場合

記念の地としてのベルリンの壁地帯

ベルリンの壁記念碑, Copyright: picture-alliance/ dpa記念の地としてのベルリンの壁には、異なる次元の意味がこめられている。それは、数多くの個々の記念壁がドイツ分断による犠牲者を想起させるものでありながら、国境線を表す壁がドイツの歴史を如実に象徴する他に類をみない記念碑であることだ。

ベルリンの壁が、敵対する社会システムを実際に分断しながら、同時にその対立を端的に伝える象徴的意味を持っていたことを考えると、今日、分断の様子を直に伝える痕跡がほとんど存在しないことに困惑を覚える。東西ドイツの社会面・精神面での落差は別として、東西の街並みにかつて存在した外観の傷は、今日ではほとんど完治している。壁に関する目に見える記憶はほとんど残っていない。

壁の痕跡の消去

連邦議会議事堂、それにその周りには、ドイツ史や議会の役割と係ってきたもののあまり知られていない場所や作品などがたくさんあります。. 
ベルリンの壁の残り。 1961 – 1989年. Cop. ドイツ連邦議会1989年11月に壁が崩壊し、その直後から開始された撤去作業は、市民参加のもと、祝賀ムード漂う政治的イベントとして行われることもあった。東西ドイツの再統一が進行する中で、政治面、経済面の統一の実現に加え、引き裂かれたベルリンの市街地を可能な限り迅速に再統一することが、明確な政治的意志であった。特に、ブランデンブルク門前のパリ広場、帝国議会周辺で弧を描くシュプレー河畔、ポツダム広場といった著名な場所がその対象である。建物を密に建設することにより、これらの地区の戦前における存在感の回復にとどまらず、分断の克服を表現することが必要だった。当初、壁周辺の一帯に記念碑的な意味合いがあると考えた政治家や知識人はあまりいなかった。国境線を示す壁は、ごく一部を除いて再統一から数年で街の風景から完全に姿を消してしまい、市内で壁が比較的長い区間にわたって保存されているのは3ヶ所でのみある。ベルナウ通り沿いに残る壁の一画、通称「イーストサイドギャラリー」、ケーテ・ニーダーキルヒナー通り沿いの「テロのトポグラフィー」付近だ。

追悼の場としての壁

チェックポイント・チャーリー; cop: Berlin Partner/FTB-Werbefotografie1989年以前から既に、壁の西側には壁を越えようとした犠牲者を偲ぶ追悼の場が多数存在した。例えば、今でも残る連邦議会議事堂近くの追悼の十字架は、東から西へ逃れる際に命を落とした旧東独市民の運命を物語っている。 また、連合軍の国境検問所チェックポイント・チャーリー近くのフリードリヒ通りには、私設の「壁博物館」も1989年以前に設立されている。再統一後、ベルナウアー通りには「ベルリンの壁ドキュメンテーションセンター」が設立され、歴史的展示物に加え、展望台からこの地域の壁の軌跡をたどることができる。 この記念センターの向かいには、シュトゥットガルトの建築家「コールホフ&コールホフ」設計による「ベルリンの壁追悼施設」が1998年に完成した。ここでは、西側の壁、東側の壁、その間に設置された無人地帯を含む当時の国境線が短い区間で再現されている。どちらの施設も、国の発案によって設置されたものだ。その近くには、ベルリンの建築家ライターマンとザッセンロートの設計による「和解のチャペル」が2000年に落成した。キリスト教区の提案によるこのチャペルは、1980年代の国境線拡大の際に取り壊された「和解教会」の跡地に建設された。この、粘土と前方に張り出した木板でできた楕円形の小さな建物に入ると、破壊された教会とともに国境地帯の記憶も蘇る。チェックポイント・チャーリーでは、1998年にフランク・ティール考案のインスタレーションが設置され、大型パネルの表と裏にそれぞれソ連兵とアメリカ兵の写真が掲げられ、冷戦時代の超大国の対立を想起させる。

壁がたどった軌跡

ベルリンの壁記念碑; Cop: Berlin Partner/TFB-Werbefotografie しかし、こうした芸術家の手による記念施設は市内に点在するにすぎず、かつて存在した壁の大部分はその痕跡もない。1990年代初頭に浮上した、かつての国境付近全域を緑地帯にする構想はごく一部の区間でしか実現されなかった。プレンツラウアーベルク地区とヴェディング地区の間の「壁公園」がその一例だ。クロイツベルク地区とミッテ地区の間の境界線上の緑地帯もよく知られており、かつての「ルイーゼンシュタット運河」の歴史的庭園が再現されている。ベルリンの多数の通りに施された目印は、壁の記憶を風化させないよう、今日までずっと一貫して行われてきた試みだ。銅製のプレートあるいは2列の敷石で引かれたラインが、注意深い歩行者に壁があったことを思い起こさせ、今日ではほとんど目に触れることのなくなった壁への記憶がさりげなく蘇るように工夫されてる。

ベルリンの壁記念碑; © Land Berlin/Thie

ベルリンの壁地帯の扱いおよびドイツ分断による犠牲者の追悼をめぐる議論が、2004年の壁崩壊15周年には、数多くのイニシアチブを通じて活発化していた。私設博物館「チェックポイント・チャーリー館」のアレクサンドラ・ヒルデブラント館長は2004年、チェックポイント・チャーリー近くに、実際の位置とはずれているものの壁を再建し、さらに分断犠牲者追悼の十字架を展示するインスタレーションを設営した。ヒルデブラント館長の行為は、2004年末までの暫定的なアートインスタレーションとしてベルリン市議会の許可を得ていたが、激しい反論を誘発した。多数の反対者が、正確さに欠けるとし、感情過多な行為であると異議を唱えたのである。

包括的な記念施設コンセプト

一方、このすでに撤去されたインスタレーションを通じて、ドイツ分断の一貫した追悼コンセプトの欠如が明らかになった。ベルリン市の文化委員会はこれを機に2004年から2005年にかけて、記念施設に関する基本計画の策定を行った。これは、歴史が残したさまざまな痕跡と、すでに実施されている記念施設の演出を、ベルリンの壁と関連付けて包括的記念施設コンセプトに統合するものである。2006年に最終決定された「ベルリンの壁追悼施設」の総合コンセプトでは、ベルナウ通り一帯を中心としたさらなる整備を予定している。壁の記念碑に加え、一部の区間でオリジナルの状態で保存されている壁の残りと国境地帯の空き地を長期的に保存し、その場所での新たな建設を禁じ、かつての国境線に沿って市街を縦横に貫通する分断を目に見える形で保存する。さらに、各地に点在する集団的記憶の場所も、追悼インスタレーション、標示板といったものをブランデンブルク門、ポツダム広場、「テロのトポグラフィー」、その他多数の場所に設けることでコンセプトに統合される。当面は相当数の記録が展示されるチェックポイント・チャーリーでも記念施設は保存されるが、今後のあり方については、この地域の開発計画によって決定されるだろう。

壁の記憶の持続的強化

さらに市外においても、壁の記憶は維持されねばならないとして、かつての国境地帯に沿って標識の付いた散策路と自転車路が整備され、市内ではあまり見かけなくなったかつての国境線をたどることができる。また壁の軌跡を表す敷石と銅製プレートによるベルトの拡張も計画されている。2008年夏に創設されたある財団が、ベルリンの壁記念施設ならびに旧東独難民および出国者用の臨時収容施設があったマリーエンフェルデの管理を行うことになっているが、多数の市民グループによる壁の記憶の維持活動も持続的に強化されねばならない。 * チェックポイント・チャーリー:チェックポイント・チャーリーは、1945年から1990年の分断時代のベルリンで最も有名な国境検問所だった。ここは、ソ連とアメリカの占領地域を結び、旧東独からの亡命の劇的な舞台でもあった。
パウル・ジーゲル
美術史・建築史研究者

翻訳:K.K.

Copyright: Goethe-Institut e.V., Online-Redaktion
2005年11月(2008年7月更新)

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