イルケル・チャタク 「映画の神様が味方に」

Ilker Çatak (fourth from left) and his team at the Student Academy Awards ceremony 2015
Ilker Çatak (fourth from left) and his team at the Student Academy Awards ceremony 2015 | 写真:Ilker Çatak

マックス・オヒュルス賞、ファースト・ステップス賞、ついには学生アカデミー賞金賞。イルケル・チャタクは、ハンブルク・メディアスクールの修了作品「Sadakat(忠誠)」(2014年)で、すでに10を越える賞を受賞している。31歳の若き映画監督は、ロサンゼルスで学生アカデミー賞授賞式に出席した後、そのまま来日。大阪ドイツ文化センターの招きで、大阪でショートショートフィルムフェスティバルのディスカッションイベントに参加し、京都では上映会への出席と学生とのワークショップをこなした。チャタク監督が受賞作品、ハリウッドの印象、そしてこれからのプランを語る。

学生アカデミー賞の受賞、改めておめでとうございます。授賞式のあったロサンゼルスから到着されたばかりですが、いかがでしたか?2月のアカデミー賞授賞式と同じような感じと想像していいのでしょうか?

ありがとうございます。学生アカデミー賞の授賞式は、アカデミー賞授賞式よりも、もっとずっとこぢんまりしています。ノミネート作品が5つでひとつが受賞作品となるわけですから、オスカーとは違いますね。賞は銅・銀・金と順に発表されます。かなり堅実な感じですね。アカデミー側の「学生諸君、ここまではよくがんばった。これからも地に足をつけて精進しなさい」というメッセージのように感じられます。授賞式の前の週には、アカデミーが用意した様々なイベントがありました。アカデミーには6,500人から7.000人ほどのメンバーがいますが、そのうちの一部と知り合う機会もありました。おそらく、ぼくらが金賞を受賞することは始めからわかっていたのでしょうが、みんなしっかりポーカーフェイスを決めこんでいましたね。だから、ぼくらは、最後の最後まで何も知りませんでした。それと、いくらか冷めた感じのパネルトークもありました。みんながみんな、ぼくの書く脚本を諸手を挙げて待ち構えているわけではないですからね。それにあちらでは、ドイツとは違って、関係するビジネスパートナーと直接手を組むわけではなく、仲介してくれる人のネットワークを相手に仕事をする、ということがあります。ビジネスのこの部分については、まる1日かけて話し合いをしましたよ。それと、プロデューサー、監督、脚本家、メーキャップアーティストといったクリエイターとの出会いもありました。とてもわくわくする経験でしたね。でも、なんといっても最高だったのは、他のフィルムメイカーとの交流です。作品の背後にいる人たちと知り合う体験は最高ですね。

「Sadakat(忠誠)」は、トルコの民主化運動の姿を非常に現実的に描き出しています。この作品に関しては、脚本案がいくつもあったと聞いていますが、他の案はどんな感じだったのでしょう?最終的にこの作品にこの脚本を選んだのはなぜですか?

この脚本に決めた理由はかなり明白なものです。まずは、スリリングであること。そして、登場人物ひとりひとりが嘘っぽくなく、その行動に説得力があることです。アスリが活動家をかくまうのはなぜか、活動家がデモに出るのはなぜか。その理由が私たちには理解できるし、また、夫が活動家を裏切る理由も理解できます。この点こそが、ぼくにとってはよいストーリーの核心なのです。誰が正しくて、誰が間違っているのかはよくわからない。この道徳的なジレンマ、これこそが現実の世界です。白黒はっきりつけることは不可能なのです。
 


ロケそのものはいかがでしたか?デモのただ中に入り込むなど、難しい瞬間はありましたか?そもそも正式な撮影許可は取っていたのですか?

もちろん撮影許可は取っていました。ただし、デモに関しては許可はありませんでした。あれは単に偶然だったのです。大統領選挙の後、人々がデモに繰り出したときに、ぼくらはたまたまそこに居合わせたのです。つまりあれは演出したわけではなく、そのまま流れに任せたものでした。そして、あのロケのときには、映画の神様がぼくらに味方してくれましたね。当局の人間がぼくらのほうにやった来た瞬間も1つ2つあって、そのときにはちょっと厄介な感じになりました。そもそもそこで撮影することが許されるのかどうか、ぼくらにははっきりとわからなかったからです。相手はなんといっても、拘束されているジャーナリストの数が今でも世界一の国ですからね。でも、最終的にはすべて問題なく終わりました。

このテーマ自体を取り上げるに至った背景はどのようなものでしたか?何か個人的なつながりがあったのですか?

「アラブの春」が、ぼくが学校に通い、ぼくの家族が暮らすあの国にいきなり波及したとき、それを全く違う視線で見ている自分に気がついたのです。他の国々でも起こっていたことに対する全く違った感覚です。2013年のことです。ぼくはネットにものすごい数の投稿をし、ドイツでデモに参加しました。それに対して、知り合いがこう書いてきたんです。きみには状況が理解できてない、我々に必要なのは安定なんだ、と。そして、「きみはドイツでいい暮らししてるじゃないか」と。そういうことを聞くのは辛い。そして、このことは同時に、ぼくに行動の必要性を認識させました。そこから生まれたのがこの映画なのです。

辛いと感じた・・つまり、ご自分の存在がふたつの文化・ふたつの国に明確に重なっているのですね。

そうです。ぼくは、ドイツ人でありトルコ人であるという、大きな幸運に恵まれています。そしてぼくは、2つのアイデンティティーを持つことは大きな幸運だと本当に思うのです。ぼくたちがトルコに引っ越したのは、ぼくが12歳のときでした。最初の6ヶ月間はかなり大変でした。新しい家、新しい学校。いきなり制服を着せられ、ネクタイをさせられる。ドイツではカッコつけて、バギーパンツはいて、ラップとかを聞いてたのに。それをトルコでまずはたたき直されたわけです。でも、その8年後にドイツに戻って来てみると、ぼくはイスタンブールが恋しかった。ドイツに帰って来たら、夕方6時にはもう通りはからっぽ。まるでどこかの村にいるような気持ちになりました。

「文化的アイデンティティー」は、以前の2つの作品でもテーマになっていましたね。ドキュメンタリー作品「Mehrzahl Heimat(複数形の故郷)」と、短編作品「アイダ」ですが・・

「Mehrzahl Heimat」は、大学在学中に作ったものです。なぜ、ドイツ語の「ふるさと」という単語であるHeimatには複数形がないのかが不思議で、ぼく自身の家族の足跡をたどることにしました。1960年にドイツに来た最初の世代から始まって、その子供、孫の世代へ。そして、今ドイツにやってくる世代にいたるまで。仕事を探すためではなく、違うことをしてみたいから、という理由でやってくる世代です。欧州での難民問題で状況は変わりましたが、そもそも、移民の数は21世紀に入ってから常に減少していたのです。ドイツにやってくる人よりも、故国に帰る人の数のほうが多かった。これも、指摘されることがあまりない事実です。これに対して、「アイダ」は、シュールリアリスティックな白黒映画です。主人公はひとりの女。この女は、毎朝、パンを半分だけ買い、その後パン屋に腰を据えて、残り半分のパンを買う人がやってくるのを待つ。そして人々の後をつけていって、彼らの似顔絵を描く。かなりトチ狂ったストーリーです。

「文化的アイデンティティー」は、ご自身の創作活動の中心的テーマであると言っていいでしょうか?それとも、それはこの2つの作品だけにあてはまることでしょうか?

ぼくは、優れたフィルムメイカー、あるいは優れたアーティストでありたいなら、個人的な事情を隠すべきではない、と思っています。この点で、ぼくが作った最も率直な作品は、おそらく、父に出演してもらった「Als Namibia eine Stadt war (ナミビアが町だったとき)」でしょう。とても独特のユーモアがある作品で、切りつめた手法で作られた非常に精密な作品でもあります。ぼくらはこの作品を当時200ユーロで制作して、これを引っさげて世界を回りました。ある映画祭でこの作品を見たとある映画批評家がとても気に入ってくれて、2010年の「今年のベスト10俳優」のひとりに、父を選んだほどです。ロバート・デ・ニーロと一緒にベスト10の仲間入りですからね、わが家の隠れた名優です。こういうことが、映画づくりの素晴らしさの基本ですね。自分を取り巻く世界、自分の回りで起きていることに対する視線が研ぎすまされるのです。
 


そもそも、映画を作ろうと思うようになったきっかけは何だったのですか?

実は、高校を卒業したあと、最初に勉強したのは経営学だったのです。だけど、それがいまひとつ楽しくなかったので、職安に行きました。そこで職員のおじさんに聞かれたんです。「きみは何が好き?趣味は?」とね。で、答えました。「映画を見るのが好きです」と。そしたらおじさんはこう言ったんです。「じゃあ、その分野で何か探すといいよ」と。そんなわけで、ぼくたちは一緒にインターネットであっちこっち検索して、その1週間後にぼくは最初の仕事を見つけたのです。そして、親しい友人であるヨハンネス・ドゥンカーと一緒に、ぼくは初めての一歩を踏み出しました。「Eskimofrosch(エスキモーガエル)」。ぼくらの一番最初の短編作品です。これですぐに賞をもらったのですが、この作品も、イスタンブールで撮影したのです。フェリーの上でね。初日のロケは、フェリーの上だったのです。それから10年後、「Sadakat」で、ひとつの輪が完結しました。この作品でも、初日のロケはフェリーの上だったのです。後でわかったように、これは良い兆候だったんですね。

フェリーのシーン、バルコニー・・これらは、ストーリーが中断する静かな瞬間の例でもありますね。作品はどんなふうに作っていくのですか?

そうですね、テンポに変化をつけることは大切です。ぼくは一時期パーカッションをやっていたのですが、作品でもいつもテンポを考えます。映画ではリズムが非常に大切なのです。演出でもそうですが。一度、ペツォルトがパネルトークの席でこう言ったことがあります。フィルムメイカーには3種類いる、詩人と、音楽家と、画家だ、と。ぼくの場合は音楽家だと自分では思っています。

次のプロジェクトはどんなものですか?ハリウッドへの引っ越しでしょうか?
 
去年の受賞者、レナート・ルフは今ちょうど、最初の作品をまさにハリウッドで撮影中です。でも、ぼくは今のところドイツでのプロジェクトがまだいくつかあります。2つの小説作品の映画化です。2つの青少年向け小説なのですが、おもしろいことに同じ年に文学賞を受賞している作品です。それと、ぼくが自分で脚本を書く映画です。まだ他にもオファーがあるのですが、こんなふうに評判になるのはうれしいですね。でも、慎重になることも必要です。これは質のいい会話と同じ。口に出された言葉ではなくて、口に出されなかった言葉が、最終的には重要なのです。
 
ただ、ぼくにとっていずれにしても重要なのは、これからのためによい人材を見つけることです。相性がよくて、一緒にプロジェクトをやっていけるような人材です。「Sadakat」チームの中心メンバーであるゲオルク・リッパート、フローリアン・マーク、アレクザンドラ・シュタイプがいてくれるのは心強いです。彼らと一緒にぜひまた何かやりたいですね。よいストーリーを物語るためには、波長の合う人と一緒に仕事をすることが一番大切なのです。