ネットにおける「内」と「外」 「私的領域」を持ち歩く

「私的領域」を持ち歩く
「私的領域」を持ち歩く | 写真:flckr (加工したもの), CC BY SA 2.0

「公」と「私」。この2つの生活領域を分ける基本的な境界線が、どんどん曖昧になっている。オンライン上で、あるいはソーシャルメディアに投稿することで、私たちは腹の奥底で考えていることを公開し、自分自身のことを世界にさらしている。しかし、その逆も可能なのだ。つまり、公の領域からの影響を遮断することもできるのである。それも、公的領域のど真ん中で。

日本には「内(うち)」という表現がある。自分の家、「内部」を指す言葉だ。つまり「内」とは、「外」ではないものであり、外の世界の「公」ではないものである。「内」と「外」の区別は、厳密で根本的であり、一見、揺るぎないものに見える。この区別は西洋にも存在する。私的なものと、公的なもの。これらはふたつの対極であり、私たちの生活を補完し合いながら構成する観点である。それぞれが不可欠であり、かつ、相容れないものなのだ。いや、どうだろう?公的領域と私的領域の境界線は、ますます曖昧なものになっているからだ。すべてを貫き通すデジタル時代のパワーを象徴する表現に、「ガラス張りの人間」という言葉がある。人間は骨の髄までむき出しにされ、徹底的に探られる存在なのだ。しかし、私たちをそのように「裏返し」にするもの、内のものを外にさらす張本人は、秘かに獲物を狙っているデータ泥棒ではない。

「犯人」とでも呼べるのは、実は私たち自身なのである。当初は、ポスト産業時代の大都市生活における匿名性からの脱却として始まったものが、インターネットをはじめとする技術によって、自動発火のスピードをどんどん高め、自発的な進化を遂げるようになった。ソーシャルメディアというプラットフォームの「ユーザー」は、レースでもしているかのように競い合う。トイレに行ったことから夢のような結婚式まで、何もかもが自撮りやツイートを通じて写真、文字、音で記録されるような世界では、もはや私的領域にはほとんど存在の余地がない。それも、これは第三者による監視ではなく、「自由意志」で行われていることなのだ。

そもそも、「私的領域」といったものは存在するのだろうか?公的領域に存在するべきではないもの、という区別はあるのだろうか?良くも悪くも、常になんらかの形で公的領域で行動しなければならないような世界と、私たちはどうやって一線を画すのだろう?自撮りにしろツイートにしろ、平均的な若者ほどにやっているわけではないという人ですら、本当に「ひとりでいる」機会、本当に自分だけの世界に閉じこもる機会は、最近ではほとんど得られない。都市に住んでいれば、私たちは始終、何万という人々と一緒に電車に乗り、通りを歩き、飲み屋やカフェ、スーパーマーケットなどに行って、ともに暮らしているのだ。

そのような日本の大都市生活は、世界にもほとんど類を見ないほど独特なものだ。狭い空間、そして、ひとつの都市がどこで終わり、どこから次の都市がはじまるのか、その境界さえほとんどわからない息詰まるほどの規模のメガシティ。そうした大都市での生活によって、そこに暮らす人々は、ますます多くの私的なものを公の領域の中へ移すという生き方を余儀なくされている。何百万という人間が暮らす都市で働き、何十万という人々と一緒に電車で、何時間もかけて通勤する。誰もがそうしている。しかし、通勤に何時間もかかるとなると、仕事後に帰宅して、そこで人付き合いをする時間など取れるわけはない。だから、生活のその部分は、「みんながいるところ」で行うことになる。つまり、仕事の後で職場近くの飲み屋に行き、そこで友人や同僚と会うのだ。彼らは多くの場合、友人兼同僚である。私的領域とは、それがそもそもあるとしても、必要最小限存在するにすぎない。 

密閉されたヘルメット

こうした生き方に対して、反動が出ないわけはない。技術が原因で起きたことを解決するために、技術が登場するというわけである。その革命はすでに1979年に始まっていた。ソニーから最初の「ウォークマン」が発売されたときである。このヘッドフォン付き携帯型カセットプレーヤーの登場で、世界は様変わりした。音楽は、ウォークマンがあればどこにでも持って行けて、どこででも聞けるものになり、それによって音楽は、目に見えない防護壁のようなものとなった。公の領域から自らを遮断することができる「音響容器」が生まれたのである。ヘッドフォンのおかげで、私が体験しているものに公の領域は関与できない。完全に公の領域に身を置きながら、秘かに自分だけの、プライベートな体験に没頭できるというこのコンセプトは、「私」と「公」というコンセプトを過激に変化させることになった。

技術が進歩するにつれて、目に見えない「外界からの隔絶」の多様なあり方が見えるようになってきた。その最新の現象が携帯電話、特にスマートフォンだ。デジタル現実との接点に常時アクセスできることで、私的領域は泡のようにブクブクといたるところに発生する。人々を隔てているのはその泡だ。たとえ、満員電車のなかに押し込まれ、お互いの間に数センチの距離しかない状態であるとしても、人々はそれぞれ私的領域の泡に包まれている。残るのは、純粋に物理的な存在だけ。その物理的な存在は、バーチャルな存在からはどんどん離れて行く。浮遊する私的領域が最終的にどこにたどり着くのか、それはまだ誰にもわからない。
 

しかし、隔絶が隠喩的な意味で起きるだけでは物足りないという人もいる。隔絶がどこまで可能かを探るプロジェクトは、私的領域にますます過激な新しい定義のバリエーションを加えようとしている。例えば「ソロシアター」。ようするに頭一個が入るサイズの段ボール箱なのだが、そこに頭を突っ込めば、周囲の世界から隔絶された状態でスマートフォンを介して娯楽が楽しめるという仕組みだ。まるでSFの世界のように聞こえるが、それは偶然ではない。すでに1925年、SFというジャンルのパイオニアであるヒューゴー・ガーンズバックが、「アイソレーター」という密閉型ヘルメットを発明している。ヘルメットには酸素を吸入する管がついており、使える知覚は視覚のみ。そしてその視覚は、あくまで原稿を見るためだけに制限されている。そうすることで、ヘルメットをかぶった本人の執筆作業に対する集中力を高めようというものだ。どちらかといえば皮肉を感じるこのガーンズバックのアイディアが、今や現実のものになったということだろうか?

「ソロシアター」や「だんぼっち」(防音機能を備えた室内設置用のカラオケ・ビデオ室)などのプロジェクトが日本発の発明であることは間違いなく偶然ではない。日本では、都市生活という環境によって、私的領域と公的領域が、世界でも稀にみる形で相互に入り組んでいるのだ。しかし、そもそも何が「公」で、何が「私」なのか、という疑問は残ったままである。はっきりしているのは、技術が中心的な役割を果たし続けるだろうということだけだ。もしかしたら、そのうち私たちはみな、「ソロシアター」が仕込まれたヘルメットをかぶって電車に乗り、自分だけの静かな世界を楽しむことになるのかもしれない。