「あいちトリエンナーレ2019」 ミロ・ラウ(IIPM) + CAMPO 『5つのやさしい小品』

Five Easy Pieces
© Phile Deprez

ベルギー社会を震撼させた、マルク・デュトルーによる少女監禁殺害事件をめぐり、当時の報道や証言を踏まえ、7人の子供たちが「再演」する舞台は、見るものの感情を激しく揺さぶる。ミロ・ラウ舞台演出家の「政治殺人国際研究所」とアートセンター CAMPO の制作した演劇作品が「あいちトリエンナーレ2019」で上演される

1995年から96年にかけ、デュトルーが9歳から18歳の少女6人に性的暴行を加えたことが明らかになった。デュトルーを逮捕した際、警察は地下室から4人の遺体を発見した。幸運にも残る2人は救出された。この事件はベルギー社会全体に強い衝撃を与えた。PTSDの問題や「子どもと大人」の正しい距離が、極めてデリケートな問題として扱われるようになった。一部ではこのような事件の再発を防ぐため、「子どもにキスしたり抱きしめたりすることをやめるべき」という極端な主張さえなされた。この誰もが知る殺人事件が、ラウの新作の主な背景となっている。

ミロ・ラウ ゲーテ・インスティトゥート東京 ミロ・ラウ「政治殺人国際研究所(IIPM-International Institute of Political Murder)」 | © Hannes Schmid 殺人犯や小児性犯罪の犯人の物語を語ることは特殊ことではないし、心の奥のトラウマを題材として取り上げることに非難されるべき点はない。しかし、ミロ・ラウ 「政治殺人国際研究所(IIPM-International Institute of Political Murder)」は、この作品を子役7人と大人の俳優1人に、ドキュメンタリー映画にも似た手法で演じさせるという勇気ある決断を下した(ラウはインタビューで、ドキュメンタリー作品に興味はない、デュトルーの物語を「再演」することに特別な意図はなく、このテーマで彼自身の語りを始めるだけだ、と語っているにも関わらず、である)。

劇中ではペーター・セイネーヴ演じる「演出家」が冒頭で、子ども一人ひとりにインタビューを行う。子役それぞれにデュトルーという人物、そして彼の起こした事件について質問を投げかける。それに続く5つの場面で子役たちが「演じる」のは、ベルギーがコンゴを植民地としていた当時の国王レオポルド2世、コンゴ民主化運動の政治家パトリス・ルムンバ、デュトルーの父親、事件の尋問を担当する警察官、行方不明の少女の両親、そして地下室に閉じ込められ、両親に向けた遺言を書く少女だ。

制作チームは200人の応募の中から7人の子役を選んだ。この子役たちはもちろんデュトルー事件の話を聞いたことがあった。ミロ・ラウが用いた手法の最も優れた点は、観客が自身の倫理的・道徳的観念の境界を測られると感じて、息苦しさを覚えるという点だろう。それと同時にラウは、適度な距離を保つことにも成功しているため、観客は、子どもたちが利用されているという感覚を持つことなく、事件の只中に放り出され、トラウマを追体験できるのだ。

ミロ・ラウの演出がベルギー全史を視野に入れているため、観客はデュトルー事件とベルギーによるコンゴ植民地支配(1908-1960年)に特筆すべき共通点があることに気づかされる。デュトルーの父親は当時、一家でコンゴに移住し、デュトルーが4歳になるまでその地に留まった。ベルギーに帰国したのはコンゴ動乱が勃発したためだった。ベルギーによるコンゴ植民地支配の際に行われた暴力行為、デュトルー家のコンゴとのつながり、そしてのちにデュトルーが犯すこととなる犯罪が対比されることによって、観客は暴力、不平等、占領、植民地主義、歴史、投獄といった因果の連鎖に気づかされる。その際ラウは観客に、これらの重要な歴史上の出来事を改めて観察し、新しい理解に至るための想像力を働かせる余地を残している。

Five Easy Pieces - Patrice Lumumba © Phile Deprez 子役の演技指導も担当するペーター・セイネーヴはインタビューで、リハーサル中に起きた興味深い経験を2つ語っている。

「観客の多くは、性暴力の犠牲者の役や犠牲者の家族役、それどころか犯罪の内容を詳細に議論する警察官の役までをも子どもたちが演じることになっていることを、残酷だと思っているようなでした。しかし、子どもの想像世界は大人のそれとはまったく違います」とセイネーヴは言う。「とりわけ彼らの『演じる』ということの定義は、例えば私の定義やプロの演技指導を受けた俳優のそれとは根本的に異なっています。」

「『俳優』たちは作品の中の役に感情移入しようとし、その際スタニスラフスキーやその他の演技術に従います。彼らは役に深く入り込み、内なる苦しみを呼び起こそうとします。」セイネーヴは笑いながら次のように付け足す。「ところが、子どもたちはというと、彼らはとてもはっきりと区別をしています。演技は演技で、現実とは全く関係ない、と。ところが、彼らはただの技術的な事柄に大きな価値を見出すことがあります。例えば、犠牲者の母親役を演じた女の子が、リハーサルを半分ほど終えた時点で、次のような提案をしたことがありました。『ここで私は泣いたほうがいいと思う。その方が効果的じゃないかな』と。私は、そんなことはしなくていいと言いましたが、彼女はあくまでその方がいいと言い張りました。結局、それはその場の流れに任せることにしました。泣けるようだったら、彼女は泣く。そうでなければ、目を刺激するようなクリームをちょっと使えばいい、と。」

Five Easy Pieces Creme © Phile Deprez 「子どもたちにとって演技は、単に仕事のようなものなのです。もちろん、自分をコントロールしきれない時もしばしばありますが。」

劇中に、死ぬ間際の女の子が両親に遺言の中身を説明する場面がある。演出では、彼女が上半身を露わにし、ショーツだけを身に着けて暗い地下室で座ることになっている。セイネーヴは劇中で彼女に対し、次のシーンに進めるよう上半身の服を脱ぐよう要求する。

「観客の多くは自分たちの観念に従って、私をある種頭のおかしい、アブノーマルなおやじと見なします」とセイネーヴは言う。「もちろんそれは理解できます。観客が目にしているのは白髪交じりの40半ばにもなる男がホールの大勢の人の前で、10歳にも満たない女の子に上半身を露わにするよう要求している様子なのですから。もちろん観客には不快な感情が残ります。」

「ですが子どもたちは自由に判断するようまかされており、服を脱ぐか脱がないかを決めることができます。私たちは子どもの両親らともたくさん話し、意思疎通をしました。これは我々にとって極めて重要なことだからです。これについては面白い話があります。ある女の子の父親に、彼の娘が場面転換の際に上半身裸になるかもしれないと伝えたとき、とても理解のあったその父親はおどけて次のように言いました。『問題ありません、家ではすっぽんぽんで走り回るのが好きな子ですから!』」
「しかしとても重要なのは、子役たちとその両親と、24時間使える連絡手段があることです。両親の中には、私たちとともにツアーに付き添っている方々もいます。また、子どもたちには家庭教師を付け、学校の授業にもついていけるようにしています。彼らはほかの子どもたちと何ら変わりません。喧嘩もしますしドタバタ騒ぎもあります。公園に遊びに行きたいと言ったり、ピクニックがしたいと言ったりするので、リハーサルがないときは、連れていきます。」

Five Easy Pieces - Cast © Phile Deprez 形式について述べれば、ラウは子どもたちと外見の似た大人を選び、彼らにいくつかの場面転換を演じさせ、それを動画に収めた。その動画は上演中に投影される。このようにして、子どもたち(リアルタイム)と大人たち(事前撮影)の「同時出演」が実現する。これはとても賢いやり方だではないだろうか。演劇論的に言えば、この視覚演出は新たな視覚的な刺激を生み出すだけでなく、舞台上の演技(子どもたち)と現実(大人たち)の結びつきを表してもいる。この結びつきは、「『演じる』とは何か」そして「私たちは何を信じるのか」という問いをもテーマにしている。

子どもたちが舞台上でときおり自分たちも思わぬ反応を見せたり、素の表情を見せたりすると、観客が笑ってしまうことがある。しかしそれを見て笑う瞬間、私たちは向き合いたくない、絶望的な歴史的過去を目撃していることを意識させられる。上演中、私たちは息苦しさと喜びの間を絶え間なく行き来する。観客が受け取るものが喜びであれ戦慄であれ、ミロ・ラウの計画は成功を収め、歴史3部作の部としてこの歴史的出来事を提示したといえるだろう。