ユーディット·シャランスキーによる寄稿文
人間は学習可能な生き物か?

Judith Schalanksy: Schuppentier
© Judith Schalansky

人間によって絶滅させられかけた動物が、よりによって新型コロナウィルス感染症を人間に媒介した犯人である可能性がある。それは残酷な皮肉であると同時に、物事の因果について考えさせる教訓でもある。​-- ユーディット·シャランスキーによる寄稿文。

四週間ほど前、私はアムステルダムのニューウェ·スピーゲル通りにある骨董店のショーウィンドーの前にしばらく釘づけになっていた。それは東アジアからアメリカまで、世界中の珍しい品々、とりわけ動物の標本を専門に扱う店で、骨のように白い石珊瑚や、ベルリンのゲイ·エリアにあるアダルトショップのディスプレイを思わせるような金色と深紅の冠毛を持つタカ、ぼさぼさの白い冠毛が特徴的なワタボウシタマリンと、その背中にのる小さな赤ん坊、ハチドリの剥製百体をおさめたヴィクトリア朝キャビネット―その中では蝶のように小さい、ありとあらゆる色に光る鳥たちが枝にとまり、沈黙の春のコンサートを開いていた―がならんでいた。それは耐えがたい眺めだった。なぜなら珍しい物に対する好奇心の中に、人間は死とひきかえにこの美を保存することができる生き物なのだ、という絶望が混じりこんできたからだ。

Judith Schalanksy: Amsterdam © Judith Schalansky くるりと背を向けようとした時、少し奥の暗がりに、ダックスフントほどの大きさの鱗におおわれた獣、センザンコウがいるのを発見した。それはまるで作り物のように見える木の幹によじ登っていた。その角質化した鱗はマツカサのように光り、まるでアンティーク家具のような黒ずんだ色をしていた。その鉤爪は木に食い込み、とがった口は驚いたように開いていた。ちっぽけなボタンのような目は、どこかわからない遠くの一点をじっと見つめていた。

その日の午前中、私は新作『失われたいくつかの物の目録』に関するインタビューをいくつか受けたが、それらはいずれも死、種の絶滅、生の意味をめぐる対話に発展していった。

一人の記者から、人間には学習能力があると思いますか、と問われて、私はゲーテ·インスティトゥートのホールの大きな窓から見える運河に目をやった。一羽の大きなトウゾクカモメが、発泡スチロールの塊をくちばしで何度もつついていた。

人間には学習能力があるだろうか。私はセンザンコウの下に付けられた札を眺めながら自問した。そこにはその獣がアフリカの熱帯雨林原産であること、無残な死をとげた後に入念に標本化されたその物体がベルギーのコレクターに所有されていたことが記されていた。

中国の市場で何が売買されるかが、世界に影響をあたえる

私がこの春に予定している朗読旅行のことが頭に浮かんだ。そこで私は初めてトリノ、ボローニャ、東京を訪れることになっていた。北京と上海への旅は数日前にキャンセルされたばかりだった。「家にいたほうが安全です」と主催者は書いてよこした。四週間後のいま、その言葉は西洋世界全体にあてはまることになった。

「中国で米袋がひっくり返った」とは、とるに足りない出来事を意味するドイツのことわざだ。けれども世界中が直接結びついた時代に、このことわざはもはやあてはまらない。イギリスの牛舎で狂牛病をひき起こす乾肉粉が飼料にされたり、東アジアの市場でコブラやコウモリが食用に屠殺されたりすることが、全世界の人類にとって大きな意味をもってくる。この二種類の動物は、動物に由来する新型コロナウィルスの最初の容疑者とされた。とくにコウモリは、みずからはダメージを受けることなく、さまざまなコロナウィルスの自然宿主となるからだ。その後、よりによってマレーセンザンコウが、新型コロナウィルスへと変異したコロナウィルスを人間へ媒介した中間宿主ではないかと推測されている。私がショーウィンドーで見つけたような中央アフリカ原産ではなく、東南アジアの熱帯雨林原産のセンザンコウだが、センザンコウは本来なら捕獲することも、市場で売買することもできないはずだ。なぜならセンザンコウの生体、またはその体の部位を取引することは、全世界で禁止されているからだ。単独行動をとり、夜行性で昆虫食のセンザンコウは、人間による密猟のため多くの野生個体群が崩壊しており、絶滅に瀕する計8種のセンザンコウがそもそも何体ずつ生存しているのかもわかっていない。センザンコウは全世界でもっとも多く違法取引がされている哺乳類だ。2018年だけで、62トンもの密輸されたセンザンコウの鱗が押収された。センザンコウの肉は高級食材とされ、その鱗は伝統的な中国医学で奇跡の薬とされるために、闇市場で高額で取引されている。

とくにブラックユーモアが好きな人でなくとも、この残酷な皮肉に気づくことだろう。よりによって人間の密猟のために絶滅寸前にまで追いつめられた、この内気で無防備な獣が、現時点ですでに何万人もの死者を出し、世界の全人口の約四分の一を自宅に封じ込めている感染症をもたらしたとは。

世界を一つの有機体として理解することが、人類の生存にとって不可欠

そのことは、私たちもまた弱い存在であって、80億の個体を有する哺乳類という点で、ウィルスにとってはたんに一つの理想的な宿主にすぎないことを思い出させてくれる。危険が迫ると、センザンコウは体を丸める。いま私たちがしているのも、それとまったく同じことだ。ここ何週間かで明らかになった人生最大の挑戦とは、世界を征服したりしないで、とにかくなにがなんでも家にとどまれ、ということなのだ。もちろん家があればの話だが。私が東ドイツに生まれたからにちがいない。私にはスーパーの空っぽの棚や生活必需品の配給、長い行列や閉ざされた国境と同じくらい、ほとんど一夜にしてすべてが一変するという現在の体験にも既視感がある。学校や動物園が閉まり、オリンピックも、私の母が毎週通っている陶芸教室もあいまいな未来へ先送りになり、新聞に突然「アフリカがヨーロッパを遮断」という見出しがおどる。 Judith Schalanksy: Pangolin © Judith Schalansky

子どもの頃、いつも夢見ていた。いつか祖父母の家で雪に降りこめられて、外界から遮断されてみたい、そうしたら祖父母がどっさり買い込んでいた備蓄食糧をぜんぶ食べられるのにと。祖父母は戦争の体験から、とにかく買える物は何でも買って、冷蔵庫や地下室やベランダのソファのすきまに詰められるだけストックしておく癖がついていた。積み上げられたモモやアンズの缶詰は、お祝いの日にしか開けられなかった。残念ながら私たちが雪に閉じこめられることは一度もなく、備蓄食糧は手つかずのままだった。今年の冬、ベルリンはまったく雪が降らなかった。もはや冬は、山の中や子どもの本、オランダの絵画の中にしか存在しないかのように思われる。もしかしたら、私たちがこの危機の時代をたんに断念と喪失としてではなく経験する時、冬はふたたび戻ってくるのかもしれない。武漢上空の清浄な空気や、ヴェネツィアの澄んだ水の強烈なイメージが、発泡スチロールをつつくカモメのイメージを覆いつくしていく。人間には学習能力があるだろうか。

すべての人を襲う可能性があるウィルスは、世界を一つの有機体として理解することがどれほど大切で、人類の生存にとってどれほど不可欠なことであるかを、あらためて私たちに教えてくれているのではないだろうか。