ダダイズム100年 くだらない話にはくだらない話を

狙いを定めた挑発と、反芸術。ダダイズムは、衝撃を与えることで市民的偏狭さとナショナリズムに抗った。ダダの誕生から100年。今、ダダが持つ新しさとはどのようなものだろう?ヴァイマールとハノーファーの間で、ダダの痕跡をたどる。
 

春のヴァイマール。旧東独時代、反体制派の会合に使われていた「Cケラー」でヴァイマール・ダダ記念展覧会のクロージングにあたって歌うのは、「デア・アブズルデ・コアー」(「不条理合唱団」)だ。指揮者ミヒャエル・フォン・ヒンツェンシュテルンがタクトを振り上げると、女声コーラスが歌い始める。「はじめに場所があった。それから言葉がやってきた。そして今、私たちがそこにいる」。教会音楽を学んだ音楽家ヒンツェンシュテルンがダダイズムに関心を持ち始めたのは、1980年代初頭のことだった。ヒンツェンシュテルンは、クルト・シュヴィッタースの有名な音響詩「原ソナタ」を演奏して、古典派の町・ヴァイマールの社会主義的文化界をおおいに揺さぶった。ヴァイマールは、ダダイズムの初期にすでに重要な役割を果たしていた地であるが、陳列ケースにはこれを思い起こさせるように、歴史上の著名なダダイストの個人的所有物であったとされる様々なガラクタが並んでいる。音響詩人クルト・シュヴィッタースの足用パウダー箱、コラージュの創始者のひとりハンナ・ヘッヒの石けん皿、ネリー・ファン・ドゥースブルフのものとされるエレガントな女性用手袋などだ。ネリー・ファン・ドゥースブルフは、夫である建築家テオ・ファン・ドゥースブルフとともに、1921年にヴァイマールにやってきた。

新しい精神という毒

ドゥースブルフはもともと、バウハウスで改革運動「デ・ステイル」についての講義をおこなうことになっていた。しかし、ドゥースブルフの関心はその数年前、第1次大戦の真っ只中に中立国スイスで芸術革命を宣言した放埒なダダイストたちに向けられていた。「僕は新しい精神という毒をまき散らす」とドゥースブルフは友人に書いている。そして、ヴァイマールでダダという毒を盛ったのはドゥースブルフだけではなかった。構成主義者とダダイストが一堂に会した初めての会議に、チューリヒからはトリスタン・ツァラが、ハノーファーからはクルト・シュヴィッタースがやってきたのである。面々は、昼間はしこたま飲んで酔っぱらい、夜はホテル・フュルステンホフの夜会に集った。めちゃくちゃに組み合わされたとしか思えない音節で構成されるテキストや、無調の音の連なりは、芸術通のヴァイマールの観客を呆然とさせるものだった。

ヴァイマールの美術史家ミヒャエル・リュッティは、ダダイストたちの手にかかればすべてが芸術になったと言う。新聞の切れ端、ショーウインドウの人形、陶製の小便器。とはいえ、ヴァイマールは「新芸術」が宣言され、実践された数多くの場所のひとつにすぎなかった。
 

Der Absurde Chor in Weimar

ヴァイマールで「はじめに言葉があった」を歌う「デア・アブズルデ・コアー」。指揮はミヒャエル・フォン・ヒンツェンシュテルン。陳列ケースにはクルト・シュヴィッタースの足用パウダー、ハンナ・ヘッヒの石けん皿といったダダの聖遺物が並ぶ(写真:M. Schuck)


緑のなかの三次元コラージュ

第1次大戦後、ダダはチューリヒから全世界に広がった。ドイツでヴァイマールの後に中心地となったのはベルリンである。その理由のひとつは、1920年に、ダダイストによって建物の裏部屋2つを使って初めて開催された第1回「ダダ見本市」の場がベルリンだったことだが、もうひとつの理由は、数少ない女性ダダイストのうちのひとりが、ベルリンで活動していたことであった。ハンナ・ヘッヒである。ヘッヒは、ナチスに作品を「退廃芸術」として禁止されると、町のはずれのガーデンハウスに引きこもり、そのまま隠遁生活を送って世の中からほぼ忘れられた存在となった。地方紙の編集者がヘッヒを再び見いだしたのは1960年代に入ってからである。ヘッヒは70歳を超えてからベルリン芸術アカデミーに招聘され、そのコラージュ作品は、ニューヨーク近代美術館で展示された。「晩年になってからの名声は、ヘッヒにとっては騎士の叙任式のようなものでした」と画家ヨハンネス・バウアーザックスは言う。ザックスは現在、ヘッヒのガーデンハウスに家族とともに暮らし、魔法をかけられたような庭の手入れをしている。この庭はまるで緑のなかの三次元ダダ・コラージュのようだ。斜めに剪定されたツゲ、円形に作られた野菜畑、まるで迷宮のような葉陰の小道。
 
世界に対する姿勢

早くに忘れ去られてしまうという運命は、ハンナ・ヘッヒだけでなく、多くのダダイストに共通したものだった。クルト・シュヴィッタースもその1人である。しかし、シュヴィッタースは今、生まれ故郷のハノーファーで、一種の近代版守護聖人的な存在だ。シュプレンゲル美術館には、シュヴィッタースの最も貴重な遺産 – 有名な「メルツバウ」の復元が展示されている。オリジナルの「メルツバウ」は、1937年にノルウェーに、その後イギリスに亡命を余儀なくされるまで、シュヴィッタースが木と張り子紙を使って両親の寝室で制作したものだった。「メルツバウ」は、そのなかを歩くことができるインスタレーションで、半分が表現主義的な映画の書き割り、半分が三次元の未来派的絵画であった。美術館でシュヴィッタースの遺産管理を担当しているイザベル・シュルツは、「メルツバウ」という名称は偶然に生まれたものだった、と言う。「シュヴィッタースは、あるコラージュを作るために、コメルツ銀行の広告を切り取っていたのですが、そのときに自分のダダ芸術のための独自の名称を思いついたわけです」。シュルツにとって、ダダとはすでに過ぎ去った美術史上の一時代ではない。ダダとは、「世界に対する姿勢、すべてに疑問を呈す姿勢」なのである。
 
どうでもいい話
Hannah Höch, Synthetische Blumen, 1952, Collage Hannah Höch, Synthetische Blumen, 1952, Collage | © Berliner Sparkasse, © VG Bild-Kunst, Bonn 2016 路面電車の停留所を数個先まで行くと、ダダ的な世界観は学校での学習教材に使われている。クルト・シュヴィッタース・ギムナジウムでは、4年生全員にシュヴィッタースの伝記と有名なナンセンス詩の載ったパンフレットが配られる。11歳のクラーラは、シュヴィッタースの「i-Gedicht(i-詩)」が一番お気に入りだ。「読むのだ。上へ、下へ、上へ、小さな点をその上へ」と誇らしげに朗誦するクラーラは、ダダとは?という問いにこう答える。「ダダの人たちって、一緒にいるときにはものすごくたくさん、どうでもいい話をしていたんだと思います。そして、世界中に、どれくらいたくさん、くだらないどうでもいいことがあるかを見せたんだと思います。戦争とかね」。では今は?「今も、くだらない話っていくらでもあるし」と答えるクラーラ。くだらない話には、くだらない話を。美術史家といえども、これほど説得力のある現代にふさわしい形でダダを説明することはできないだろう。
 

ハンナ・ヘッヒ(1889-1978)古典的近代を代表するドイツで最も重要な女性芸術家のひとり。クンストハレ・マンハイムでの展覧会(2016年4月22日〜2016年8月14日)では1945年以降のヘッヒの作品が展示され、充実したカタログも入手できる。