FAZ新聞のレビュー
彼女のような人が筆を動かすと、そこから何かが浮かび上がる

The author Thomas Melle
Photo: Dagmar Morath

ユーディット・シャランスキーの新作は、ひとつの大きなテーマの元で語られる物語を集めたものだ。そのテーマとは、喪失。失われるというテーマで私たちは、類まれな文学作品を手に入れる。

いったいこれは何をテーマにした作品なのだろう?出版社はユーディット・シャランスキーの「失われたいくつかの物の目録」(Verzeichnis einiger Verluste) を特定のジャンルに分類していない。しかしこの作品は、すでに出版前の段階でヴィルヘルム・ラーベ賞の受賞が決まっていた。ドイツの最も重要な文学賞のひとつであるヴィルヘルム・ラーベ賞はここ10年の間、小説にしか授与されていない。選考委員はこの作品を「非常に異質な文章の数々」と表現し、「物語」という表現を使うことを避けている。シャランスキー自身は、「物語」という言葉を避けてはいない。ただ、それが登場するのは、作品の一番最後、引用文献と画像一覧の中である。そこに、文章のひとつについて「この物語は、モンタージュである」という表現が使われている。つまりそれ以外は、モンタージュではない。全て物語なのである。
 
それも、一般に推測されるのとは異なる形態原理に従った物語だ。しかし、作家シャランスキーは装丁家でもある。これは、この作品の組版と製本の美しさに見てとれるが、このことを知っていれば、この作品のシンメトリーにも目が行くはずだ。例えば、作品に収められた合計12の物語のページ数は、全てきっかり同じ(16ページ)である。
 
序言も同じページ数だ。つまり、文章はそれぞれ非常に異質ながら、それらは全て厳密な決まりに従って書かれているのである。そしてその決まりは、この作品全体を失われたもののアンソロジー的な目録としてのみでなく、本そのものに関するもう一つの章として考えると見えてくる。つまり、序言、前置き、人名一覧、引用文献一覧も含めると、「失われたいくつかの物の目録」は16の部分から成り立っているのだ。そして、この作品が全体として語っているのも、「消失」についてである。その消失は、この本全体がどれほど丁寧に仕上げられているかに心を奪われることで、逆に浮き上がってくる。素晴らしい装丁の本は、今や失われたものに属するからだ。

Judith Schalansky: „Verzeichnis einiger Verluste“ © © Suhrkamp Verlag Judith Schalansky: „Verzeichnis einiger Verluste“ © Suhrkamp Verlag
あらゆる点で「失われたいくつかの物の目録」は、1980年生まれとまだ若いシャランスキーの人生を総括する、ある種自叙伝的な作品だ。4つの物語が作者の「私」という視点から語られており、そのうちの2つは作者の故郷を舞台としている。フォアポンメルン地方の港町、グライフスヴァルト周辺だ。「Hafen von Greifswald」(グライフスヴァルトの港)という詩的な文章は、グライフスヴァルトの港に注ぐリュック川沿いを散歩、というよりは探検するために出かけた際の印象を描いた文章で、この中で失われたものとして取り上げられるのは、文章のタイトルであるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画である。しかし、1931年に焼失したこの絵画は、自然景観と文化景観を極めて集中的かつ緻密に描写するためのきっかけにすぎない。作品中の12の物語では、失われるものよりも得られるものの方がはるかに多いが、それはここでも同様だ。ここで得られるのは、シャランスキーが近年、ほぼ独力でドイツに復活させた文学ジャンル、つまり彼女がその最も重要な最新の立役者となったネイチャー・ライティングである。その代表的存在は、シャランスキーの編集発行によるシリーズ「Naturkunden」(Matthes & Seitz出版)

「失われたいくつかの物の目録」の別の物語の中に見られるネイチャー・ライティングの例を挙げよう。完成された文だが、元になっているのは自分で観察したことではなく研究した資料である。「太陽が沈むまで、船団は未知の、彼方に波打つ一筋の陸地に舵を向け、夜を徹し明け方まで波の中を進んでいった。明け方、船団はその島までおよそ4マイルのところまで近づいた。波間から上った朝日の光に照らされた島の南側の姿は、心を揺さぶるほど美しいものであったに違いない。この世のものとも思われぬ風景に深く心を奪われ、幾人もの乗組員がすぐに筆とペンを手に取り、その胸おどる眺望を、あてにならない記憶だけに頼らず水彩絵の具とそれなりに慣れた筆致によって形に留めようとしたのであった」。航海用語であるlavieren(波の中を進む)を使った直後に、水彩絵の具というlavierenする(色をぼかす)ことを連想させる表現を使う、というところだけでも、言葉の魔術師としてのシャランスキーの腕はいかんなく発揮されている。
 
しかしシャランスキーの口調は変幻自在だ。正反対の例がギリシャの女流詩人サッフォーの失われた詩についての物語である。この物語は、あらゆる点で作品全体の核心部をなしているが、短く簡潔に区切られた構成によって、いわばリズミカルなスタッカートのようなエッセイに仕上がっている。このエッセイは、女性間の愛への賛歌だ。女性同士の愛は、シャランスキーがこれまで発表した中で最も美しい短編小説「Blau steht dir nicht(あなたには青は似合わない)」(2008年)のなかで、両性具有の登場人物を通じて示唆したテーマであった。その同じテーマが、この物語の中でグロテスクなクライマックスを迎える。シャランスキーは、偉大な映画スター、グレタ・ガルボの頭の中で長いモノローグを語らせる。この物語の出発点となり、またタイトルともなったのは、ガルボが崇拝していた映画監督フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウの失われたデビュー作「Der Knabe in Blau(青を着た少年)」である。この青という色を通じて、シャランスキーは10年前の自作品「Blau steht dir nicht」へのつながりを作り出す。
 
作品全体を通じて感じられるのは、シャランスキーの心をとらえているものたちだ 。それは、版を重ね多くの言語に翻訳された出世作「奇妙な孤島の物語」(2009年)にすでに現れているような、遠い島々に対する憧れであり、また、これまでの代表作「キリンの首」(2011年)で見られたような、東ドイツ時代の生活やメンタリティーをフィクションを通じて探ることへの関心である。「キリンの首」に連なる物語は「Palast der Republik (共和国宮殿)」で、その的確な描写には圧倒されるばかりだ。「奇妙な孤島の物語」の雰囲気は、冒頭を飾る物語「Tuanaki」に見られる。これは、19世紀に海底地震によって海に沈んだ環礁の物語だ。「私の視線は、最後に再び水色の地球儀の上にとまった。その場所はすぐに見つかった。まさにそこ、赤道の南、いくつかの島が散らばっているあたりに、このひとかけらの完全な陸地は存在していたのだ。世界の果てに。その陸地は、かつてその世界について知っていたことを、全て忘れてしまった。しかし世界が惜しみ嘆くのは、知られていることだけだ。このちっぽけな島とともに世界が何を失ったかを、世界は知らない。地球という球体は、この失われたちっぽけな場所に、地球の中心であることをやはり許したはずなのに。たとえ、その中心と世界を結ぶのが、交易や戦争といった固定された索具ではなく、夢というはるかに華奢に紡がれた糸であったとしても。なぜなら、あらゆる現実の中で最高位にあるのは神話なのであり、そして – と、私は一瞬思った – 世界の出来事の真の舞台は、図書館なのだから」。
 
「失われたいくつかの物の目録」が納められる図書館は、間違いなくそうなるだろう。

初掲:2018年10月24日フランクフルター・アルゲマイネ紙©︎Frankfurter Allgemeine Zeitung GmbH, Frankfurt. フランクフルター・アルゲマイネ紙アーカイブの許可を得て掲載。