資本主義への反感

picture alliance

1969年4月28日の沖縄デー、東京駅山手線ホームには角材や鉄パイプを持った全学連の学生たちが集まり、ジグザグデモを繰り返した。全国では15万人以上が参加して集会やデモが行われた; Copyright: picture alliance
 1968年、世界は燃えていた」などということが言われることがある。本当だろうか? 韓国から日本にきた客員教授で、「68年世代」にあたる女性は、こう言っていた。「1968年? 何もなかったわ。学生運動なら、1960年の李承晩政権打倒や、1988年の民主化運動のほうがずっと重大だった」。インドで会った「68年世代」のNGOリーダーは言った。「1968年? ベンガルで農民蜂起があったな。デリーは何もなかったよ」。

「1968年、世界は燃えていた」というとき、われわれはたいてい、西欧先進国と日本だけを思い浮かべている。アメリカ合衆国、ドイツ、イタリア、フランス、日本などでは、確かに学生運動の高揚があった。しかしほとんどの第三世界の国々にとっては、「何もなかった」。ここには、無意識の西欧中心主義があるとはいえないだろうか。

これに反論する者もいるかもしれない。ベトナム戦争があった、中国の文化大革命があった、パレスチナの蜂起があった、ソ連軍のチェコ侵攻があった、だから「1968年」は先進諸国だけのものではないと。

「1968年」 ― それぞれの動機

しかし、中国の文化大革命やソ連のチェコ侵攻と、フランスのパリ五月革命やアメリカのヒッピー・ムーブメントは、同列に論じられるような現象なのだろうか。それらはまったく異なる社会的条件において、まったく異なる社会階層がになった、まったく異なる「運動」だったはずである。

さらにいえば、先進諸国においても、それぞれの事情は異なっていた。私の知るかぎりでいえば、たとえばイギリスでは大規模な学生運動はおきなかった。当時のイギリスは大学進学率が低く、大学生が大衆化していたアメリカや日本などとは学生の社会的位置がまったく異なっていたからだと思われる。  また学生運動の高揚があった国においても、それぞれの現象や社会的背景は異なっていた。

日本の学生運動

1968年1月19日、佐世保への米原子力空母「エンタープライズ」の寄港阻止闘争でアメリカと日本の国旗が焼かれた。日米安保条約に基づき日本政府は同艦の寄港を認めたが、被爆県入港と佐世保をベトナム戦争の最前線とすることに強く反対し、機動隊と佐世保橋で衝突した; Copyright: picture alliance

たとえば、パリ五月革命は学生のみならず労働者をも巻きこむ社会的広がりを持ったが、パリ以外の地方には波及せず、期間は一か月ほどで終わった。ひるがえって日本の全共闘運動や新左翼運動は、ほとんど労働者や市民の支持のない学生のみの運動であったが、全国の大学に波及し、約ニ年から三年にわたって持続した。日本の歴史的事例でいえば、パリ五月革命のパターンは、社会的広がりと期間の短さという点からいって、むしろ1960年5月から6月の日米安保条約反対闘争のほうに似ている。

上記のような事例からわかるように、「1968年」といっても、それは均質な現象として世界を覆っていたわけではない。「何もなかった」地域もあれば、まったく異なる事態が起きていた地域もあり、似たような事態が起きてはいても実は社会的背景も現象の形態も異なっているケースが少なくない。現在から「1968年」を実りあるかたちで論じようとするならば、そのステレオタイプ的なイメージを論じる前に、まずそれぞれの国や地域における社会的背景などを調査し、比較検討する必要がある。

経済の急成長と社会的ひずみ

ここで日本の研究者として、ここでは日本の「1968年」の社会的背景についてごく簡単に説明しておこう。  日本では1967年10月から、短く見れば1969年11月まで、長く見れば1972年2月まで学生運動の昂揚期があった。日本の場合、前述のようにこれらはほとんど学生のみの運動で、労働者や市民・農民などの支持はないか、ごくわずかであった。1960年代は、日本が年率平均11パーセントの高度経済成長をとげていた時期であった。年長の労働者や市民たちは、このような好況期に学生たちがマルクス主義を掲げて大学を占拠し、街頭で警官隊とぶつかるのか理由をまったく理解できず、共感も支持もしなかった。

それでは、なぜそのような好況期に学生運動が高揚したのか。筆者の調査では、以下のような理由があったと思われる。  一言でいえば、日本の「1968年」の最大の原因は、高度経済成長による社会の激変に、若者たちが集団アレルギー反応を起こしたことにある。1950年代までの日本はまだ発展途上国といってよく、それが1970年までには世界第三位のGNPを誇るまでに急成長した。しかしこの急成長は、さまざまなひずみをもたらした。

不満と未来への閉塞感

 まず大学進学率の急上昇により、学生数が急増し、大学生が大衆化した。かつて大学進学率が10%未満だった時期には、大学生は「末は博士か大臣か」といわれたエリートであった。だが1960年代末までには、「末はしがないホワイトカラー」というのが大学生の常識になっていた。このことは学生たちに、不満と未来への閉塞感をもたらした。

また、高度成長による社会の激変に、若者たちの価値観がついていけなかった。幼少期には田園で和服を着て育った彼らが、20歳になったときにはビル街でジーンズをはいていた。このことは、彼らに大衆消費社会の楽しみを与えた一方で、そのような資本主義的な贅沢に飲み込まれてよいのかという罪悪感をもたらした。この罪悪感が、資本主義への反感という形態をとって爆発したのである。

このような日本の「1968年」の社会的背景は、はたしてアメリカやドイツ、フランスなどと共通しているのだろうか。しているとすればどこが共通しているのか。していないとすれば、異なった背景から起きたにも関わらず類似した学生運動になったのはなぜなのか。現在から「1968年」を単なるノスタルジーや神話として語るのでないならば、こうした「それぞれの1968年」の検証と比較を行うことが、ぜひとも必要と思われる。

小熊英二
慶應義塾大学教授。相関社会科学。

Copyright: Goethe-Institut, Online-Redaktion