リナ・ゴメス 振付家、ダンサー

Lina Gómez © © Ruppert Bohle Lina Gómez © Ruppert Bohle

今日の身体で何ができますか?

      
「最近どうしてたの?」 この問いは、日々の生活の中でごく普通に投げかけられる質問の一つなのでしょうが、どういうわけかコロナが流行り出してから、ずいぶんと重みを増したようです。現在、その質問は色々なものを背負わされているようです。 日によってその質問が禁句になったり、励ましや刺激になったりもするのです。   
          
質問に戻りますが、あなたはいかがお過ごしでしたか? 今日、私は朝食を作り、それからピアノとギターの練習をしました。 ホームスクーリングをしながら(本に載っているエクササイズをきちんと説明出来ていますようにと願いつつ)、メールチェックをしていました。 これからまだスーパーマーケットに行かなければならないし、上手くいけばオンラインでダンスのトレーニングをしたいと思っています。 また、プロジェクトの作成や新しい仕事のリサーチに集中しなくてはならない日もあります。 暇なときには、何かやることを探します。 先日、私は家の窓を掃除し、綺麗になった窓と自分の腕前を自画自賛することで新しいエネルギーを家に呼び込みました。自分の良いところを褒め、小さなことにも大きな達成感を感じるように努力しているのです。
 
長時間電話で話をしていたら、なぜか昔、私が電話のスパイラルケーブルに指を巻き付けながら友人と長電話をしていて、母に電話を切りなさいと大声で叱られたことを思い出しました。 最近の日々は、この文章のように、誰の許しも求めず、また何の前置きも結びもなく、次から次へと移り変わっていくかのようです。 今は、夢想、内省、そして休止の時なのです。 私にとってこれらの時間は、陳腐な表現に聞こえるかもしれませんが、特に自分の身体との再接続の時間です。私はどういうわけか、ここ一年の間、自分が何年も前の毎日踊っていた頃の身体の記憶をひきずっていることに気づきました。
自分以外の人のための振付家としての経験は、人体に対する色々な理解を促すのには役に立ちましたが、どうやら自分自身の身体をどうやって理解するかを忘れてしまっていたようです。       
 
理論的すぎたりメランコリックになることもなく、要するに、私は自分の身体が今は自分のものではないかのような感覚に気づきました。 録画したヨガのクラスをやってみた時にやっとその事に気付いたのです。 私の身体は動きを認識していて、問題なくついて行けると確信していたのですが、実際には違っていました。常々いとも簡単に出来ていたはずのこれらの動きが、今やほとんど出来なくなっていて、自分の体の一部が全くコントロールできないような感覚さえありました。 自分を安心させるために、今日は調子が悪い日なのだと思ってみましたが、次のトレーニングでも同じでした。 友人がSNSでコンテンポラリーダンスのクラスを提供していたので、自宅の家具をどかしてレッスンを受けてみました。少し難易度は下でしたが、それでもやはり自分の体をコントロールできていないように感じました。 私は、まあそんな日もあるさ、とため息をつきました。それからオンラインでバレエをしてみました。 そして私の疑いは確信に変わったのです。 いつこの身体が生まれたの? これは誰の身体だったの? この身体で何ができるの?
 
私はすぐに、うつ病やフラストレーション、そして、コンビニのチョコレートを全部食べたいという欲求などの些細なことを抜きにして、今の自分のありのままの体の声を聞いて認めることにしました。 このコロナの期間に、自分自身の規律を確立することにしました。それは私の強さには決してならなかったし、いつも私に踊るインスピレーションを与えてきたもの:一緒に汗をかくこと、動いて触れることで学ぶこと、一緒に呼吸すること、観て、観られること、常に他者との距離を測りながら空間を横切ること、熱、音、匂い、エネルギー、他者の身体を感じること ― こうしたものには満たされていません。今向き合うのは、画面に映し出された身体と、家にいる自分です。 新しいルーチンと新しい種類の身体感覚のためには、実際には他人の存在がより必要となります。 しかし、これが現れたのは他人がいない時でした。 他人への接触を奪われたからこそ生まれた、自分への接触の再確立。 これは、今だからこそ起こる不思議な矛盾です。
          
ヴィラ鴨川滞在中の私の目的の一つに、日本の伝統的な身体運動(動法と整体法)を体験することがありました。それは動作の研究を続け、身体が他の文化でどのように理解されているかを見るために交流したいからだけではなく、自分に栄養を与えたいとも思ったからなのです。振付家としての自分には刺激が必要で、自分自身の身体には栄養を与える必要があり、他の人を動かすだけではなく自分の体を動かす必要があることに私は気づきました。 自分の身体の調子を取り戻したいという想いが、すでに私を呼んでいたのだと思います。 当初は日本に向けてこの想いを投影していたのですが、今はどんな場所やどんな条件でもやりたいと思い、そしてこの時がやってきました。 
          
この奇妙な時の後に何が起こるか、私には分かりません。 この他者からの分離によって、ライブアートを体験したいという願望がさらに強くなることを自分では願っています。 劇場でも、路上でも、身体の芸術、存在の芸術を最大限かつ本来の力で体験できる空間であれば、どんな空間でもいいのです。 そこに宿る肉体の熱とエネルギーによって活気づく空間。 ただ画面の中だけでなく、Wi-Fi接続しなくても別の世界に連れて行ってくれる空間。 イマジネーションを刺激し、一緒に身体を動かす空間。
 
以前、私は、身体のアナログな動作や、ダンス・振付で動く身体をどうしたらデジタルの動きで置き換えられるのか?と問われたことがあります。 私は身体について思索している哲学者たち(注)から気づきを得ました。 身体とは、身体ができる動作のことであり、その力で私達は世界に存在するという経験をしているのであり、すべての力が運動の中に存在していると言う人のことを私は思い起こしたのです。 気づかない動き、先行する動き、見えない動き。つまり、私達はモノそのものではなく、モノやイメージを構成する動きに関係しているのです。 行動において、動作において身体は強い力となります。 私達は常に変わり続ける場所にいて、この連続的な変化によって常に生まれ変わっています。私達はその都度自分の感受性を見直し、認識を見直す必要があります。       
          
今のような時期には、状況に応じた運動が必要だと思います。 自分の認識を広げるためには、常に動き続け、積極的に観察し、エクササイズをし、待機し、記憶し続ける必要があります。 私達は常に内と外の現実を見て、その整合性を取り続ける必要があります。私達の力、つまり私達の身体が、私達の置かれている環境と共存することが必要なのです。現在はデジタルな環境が主になっていますが、それでも私は動きやダンスが、一次元のデジタルな、触れられない、匂いもない、熱もない身体―別物と理解するべき存在―に縮小されてしまわないことを信じ、そして願っています。 今の時代に対応して、それぞれの体を独自の広場で動かし、詩的な答えを見つける方法があるかもしれません。 しかしそれでも、実在せずに画面の中でしか動かない力が、身体の持つ説得力に取って代わることは決して出来ないのです。
          
(注)ルイス・フガンティと、その元であるスピノザ、ドゥルーズ、ガッタリ、ニーチェ、バーグソン

 
日本語翻訳: ​藤澤美紀
 

Lina Gómez
リナ・ゴメス(振付家、ダンサー)

コロンビア生まれ。ブラジル・サンパウロでダンスと演劇を学んだ後、ベルリンのHZTの修士課程で振付を学んだ。現在、ベルリンを拠点に活動する。ドイツやトルコの大学で講師を務めたほか、ポルトガル、南米、インドなど様々な教育機関でも教鞭を執っている。
2020年4月~7月までヴィラ鴨川にレジデンス滞在予定だったが、新型コロナ感染拡大の影響を受け、2021年に来日延期となった。