読み方を学ぶ:
漫画と、デマに対抗する手段としてのその可能性
20年前、日本文化史の著名な研究者であるテッサ・モーリス=スズキは、「歴史的知識[ER1] 」を通じて多様な新しいメディアを検討するよう、歴史学者などに促した。「歴史的知識」は、従来のトップダウンの直線的な歴史学の権威を飛び超えて、しばしば国史を装って生産され、流通し、大衆に消費される(2005年)。モーリス=スズキはまた、ポストモダン的に「歴史の終わり」を宣言したり、すべての歴史的表象が等しく有意義であるかのように歴史を相対化したりすることにも警鐘を鳴らしている。その代わりに、彼女は「歴史的真実性」という概念を提唱している。「歴史的真実性」とは、過去が私たちの現在においてどのように経験されているか、また研究、評価、自己反省、協業、その他の学術的・一般的な取り組みを通じて私たちが歴史的真実性との関係をどのように発展させることができるかを反映した方法論である[1]。
モーリス=スズキが論争の場として分析する媒体の一つが日本の漫画である。この短い序論では、デマについて考え、デマに対抗する上でのモーリス=スズキの二つの重要な介入法について考察する。第一に、漫画が娯楽と教育のための重要な媒体であるということを、漫画の形式的側面とその地域的普及の歴史に焦点を当てながら明らかにしていく。第二に、「真実」や「事実」に安易に頼る代わりに、難しいが必要な「真実性」をいかにして受け入れ、新旧の媒体の両方を利用しつつ、陰謀論や巧妙な形のデマをどうすれば克服できるかを見ていく。
漫画の起源をめぐっては、文化史的アプローチと社会経済的アプローチとの間でいまだに説が異なる。前者では長い文化発展の歴史のみをたどる一方、後者では戦後の日本の驚異的な経済成長と漫画の発展が並行して議論されることが多い(Ingulsrud and Allen 2009)。これら二つの異なる命題について考察したり裁定したりするのは本稿の範囲を超えるので論じない。漫画の時代区分(例えば、12世紀の仏画であるか1950年代のグラフィックテキストであるか)をめぐる違いはあるにせよ、どちらのアプローチも漫画の「日本的」な起源を重視している、ということだけ述べておけば十分だろう。ただし、特に社会経済的アプローチにおいては、明治期以降の「アジア的」および「西洋的」なグラフィック表現によるさまざまな影響が取り沙汰される場合もある。しかし、漫画は単純に見えるものの、一般論として、しばしば公的な言説やイデオロギーを不遜に嘲笑し、逸脱し、さらには退廃をもって遇してきたと言っても間違いではないだろう。
1960年代後半に辰巳ヨシヒロ、水木しげる、つげ義春らがさまざまな形で開拓したいわゆる劇画は、日本帝国主義への日本人の健忘症的な姿勢や加担を批判し、戦後の経済発展主義がもたらした疎外感の増大をもテーマとした。1970年代には、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子といった作家たちによる少女漫画が台頭し、四角いコマ割りのような少年漫画の慣習を打破しただけでなく、セクシュアリティやフェミニズムといった主題も探求した。もちろん、漫画という形式そのものが、言語メディアとグラフィックメディアの組み合わせとして、その時代の支配的なイデオロギーを強化するために利用されることもある。例えば、1914年に創刊された十代の少年向けの漫画雑誌『少年倶楽部』は、軍国主義や日本帝国主義を支持し、戦時プロパガンダの一翼を担った。
実際、有名な『のらくろ』では、犬の兵士が臆病な豚として描かれている中国人を勇敢に打ち負かし(1931年)、『冒険ダン吉』では、若い英雄が太平洋の島で原住民の心をつかみ、白人の侵略者を打倒する(1933~39年)。他のウルトラナショナリストの右派漫画家としては、多作な小林よしのりがいる。彼は一連の『ゴーマニズム宣言』や歴史修正主義的見解を発表し、日本の歴史、特にその植民地支配や戦後史に関する公式見解と左派的解釈の両方を覆すほどの影響を与えた。例えば、『台湾論』(2000年)では、彼は日本の植民地支配のことをヨーロッパの「搾取主義」や「抽出主義」とは対照的な「開発主義」であるとして正当化している。また、彼はいわゆる「従軍慰安婦」の存在も否定し、彼女たちは日本兵に奉仕する「志願者」であったと主張している[2]。
中国本土では、日中戦争中の抗日活動を描いた「マンホア(漫画)」が、共産党支配を正当化するナショナリストのストーリーに織り込まれた。モーリス=スズキが指摘したように、「真実」や「普遍性」についてのコンセンサスが一切ないままに、歴史(そして他の形の知識)がますます消費され、論争の的になっているが、漫画もそうした数多くの媒体のうちの一つにすぎない。この点についてはまた後で触れる。
文化生産の有効な形態としての漫画についての議論に移る前に、日本の漫画が中国本土などの東アジアの隣国に与えた影響を軽く検討しておくのは有益かもしれない。日本や西洋の帝国は実際、この地域の文化的発展に極めて大きな影響を与えてきた。哲学から文学、芸術から建築に至るまで、植民地主義や帝国主義は、過去を現在へ根本的に位置づけし直し、「近代」と呼ばれる新時代を切り開くことにつながった。例えば、中国語の「マンホア」は、1920年代に日本の漫画からの借用語として生まれた同根語で、特に画家で随筆家の豊子愷(ほうしがい)による叙情的なモノクロームの絵のことを指す。豊の作風には、豊が東京滞在中に触れた日本の現代美術からの影響が見られる。豊は中国の芸術家からも刺激を受けており、日本や中国に導入された西洋風の模倣的リアリズムに対する不満もあったようだ(Crepsi 4)。さらに重要なポイントは、「マンホア」の芸術的表現が、日本や西洋の外国のモデルを模倣して再発明することを通じ、上海の活気あるコスモポリタンな娯楽誌に急速に取り込まれていったことである。日本からの影響は中国の「マンホア」に顕著に見られるが、その影響は決して一方向的なものではなく、互いに絡み合いながら発展していることも多い。特に豊の場合は、上海特有の半植民地主義やコスモポリタニズムの歴史の要素も入っている。
これらは、恥ずかしさや緊張を伝えるための巨大な汗のしずくや、さまざまな感情を表現するための目や口の形の単純な変化などにより、象徴的・感情的な意味を伝える。こうした図像学は、他のあらゆる言語や方言と同様、地理的に日本の外にいても学び、流用することができる(Cohn 193)。日本の視覚言語は、今日の世界中の芸術家に対し、ますます顕著な影響を与えている。漫画の読み方を学ぶ必要があるのと同様に、その視覚言語を習得できれば、芸術家たちは一貫性をもって自らの視点を伝え、幅広い読者を獲得できるようになる。漫画の視覚言語は、私たちを取り巻く世界についての議論を展開し、豊かな表現による説明を行う上で、「説得力のある」レトリックを構築することができる(Bogost 2007)。
欧米における漫画の人気は比較的最近のものだが、アジアでの漫画の影響力は、日本の植民地主義や帝国主義に起因する、より長い論争に満ちた歴史を持っている。日本の支配に対する反感は戦後も続いた。台湾や韓国のような旧植民地や、中国本土や香港のようなかつて日本に侵略された地域は、取られた対策や結果もさまざまだったが、日本の文化製品の輸入を禁止し続けた。
しかし、公式にはそのように規制されていたにもかかわらず、旧日本帝国領においては海賊版の蔓延により、日本の漫画、ポップミュージック、アニメの流通が進んだ。1960年代後半には、台湾で翻訳されて再版された漫画の海賊版が香港に広まった結果、現地の芸術家たちは、漫画的な長めのストーリーやカメラアングル、さらには大きな目や長い脚を持つ少女といった特定の人物の特徴を取り入れ始めた(Lent 299)。日本の子供向けアニメは香港、台湾、韓国のローカルテレビで放映されたが、例えば韓国では、『ドラえもん』のような人気番組が日本由来のものであることをなるべく隠すために、下駄のような日本に関連する視覚的要素は消去された。漫画やアニメのこうした「無国籍性」、あるいは岩渕功一(2002年)が「文化的無臭性」と呼んだ特徴が、アジア内外への日本の大衆文化の流入を促進したのである。
しかし、日本の大衆文化がソフトパワーの代表的な輸出品として、あるいは「クールジャパン」として知られるようになったのは、日本のバブルが崩壊し、産業界が海外市場の開拓に躍起になり始めた1990年代半ば以降のことである。中国がWTOに加盟し、非公式な海賊版に代わって正式なライセンス許諾が行われるようになると、日本の漫画やその他の文化製品は、この地域における大衆消費の主流となった。1990年代以降、この地域は間違いなく「リテラシー」を発達させ、読解力だけでなく、描くことや日本的な視覚言語への習熟が進み、漫画という形態も娯楽、情報共有、芸術の目的で広く使われるようになった。
近年では、漫画は学問の正当な研究分野として浮上し、教育目的に活用されることもますます増えている。漫画独自の特性は、生物学から歴史学、言語学習から社会科に至るまで、主にテキストベースの教育に対して効果的な代替手段を提供してきた(Toda and Oh 2021、Iida and Takeyama 2018)。漫画の視覚的な形式は、読むのが苦手な読者や、失読症などの学習困難を抱えている人々にとって、読書の魅力を高めるために役立つ。漫画はまた、複雑な考えを理解しやすいビジュアルやストーリーに分解して、難しい主題を生徒が把握しやすくすることができる。上述したように、歴史、文化、社会問題などを漫画で描けば、読者はこれらの分野についての洞察を得られる。ただし、漫画は「論争」を招くという性質も心に留めておくことが重要である。原爆の使用や日本による従軍慰安婦の搾取のような論議を呼んでいる問題についても、漫画は情報を提供して形を整えるだけでなく、歪曲して議論をそらし、さらには歴史的な根拠を否定する能力も持っている。だが、漫画の中には、複雑なテーマや道徳的矛盾を探求することで、読者に批判的思考を促し、共感力を育むものもある。
しかし、陰謀論などのもっと複雑な形のデマの中には、騙されやすく搾取されやすい消費者を教育するよりも、対処するのが難しいものもある。消費者詐欺とは異なり、陰謀論は必ずしも金銭的利益を追求するわけではなく、政治的不安定を生み出そうという最終目標へ向けて、社会の分断と既成の制度への不信をまき散らす。陰謀論に真っ向から反論するのが難しいのは、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの言葉を借りれば、「真実によって嘘をつく」という手法が取られるためだ。反ワクチン運動で用いられているような陰謀論的物語は、実証的・科学的エビデンスに基づくものではないが、政府への批判としては完全に間違っているとは言えないかもしれない。諸国家は、自国民を騙し、傷つけてきた歴史もあるからだ(特に黒人やアボリジニのコミュニティに対しては医療実験も行われてきた)。
しかし陰謀論者の関心対象は、そのような残虐行為ではなく、政府の行き過ぎた行為の犠牲者として自分たちを演出することにある。陰謀論にある程度の真実が含まれている可能性を認めることは、特定の政党や運動の政治的目論見を支持することと同義ではない。むしろ、歴史的な「真実」や普遍主義を安易に受け入れてはならないというモーリス=スズキの警告に耳を傾けるべきであって、政治的な出来事へのアプローチにおいて常に「真実性」を追求し、陰謀論やその他の「フェイクニュース」をそもそも可能にしてきた歴史的状況を考察することを目指すべきであろう。デマの根本原因(それらは明らかに複数存在し、特定の歴史的文脈に依拠している)に対処しない限り、いくら教育や保護策を実施しても、周囲にあふれているデマの猛攻撃から私たち自身を救うことはできない。
モーリス=スズキが論争の場として分析する媒体の一つが日本の漫画である。この短い序論では、デマについて考え、デマに対抗する上でのモーリス=スズキの二つの重要な介入法について考察する。第一に、漫画が娯楽と教育のための重要な媒体であるということを、漫画の形式的側面とその地域的普及の歴史に焦点を当てながら明らかにしていく。第二に、「真実」や「事実」に安易に頼る代わりに、難しいが必要な「真実性」をいかにして受け入れ、新旧の媒体の両方を利用しつつ、陰謀論や巧妙な形のデマをどうすれば克服できるかを見ていく。
漫画とその論争の歴史
近年、漫画は世界的に人気があり、その美学は向上し、学術的な研究によってシリアスなコンテンツへのアプローチも行われているが、特に日本の外では、必ずしもそうした状況にない。アート・スピーゲルマンの『マウス―アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語』(原書は1986年出版)、ジョー・サッコの『パレスチナ』(原書は1993年出版)、そして最近ではティー・ブイの『私たちにできたこと 難民になったベトナムの少女とその家族の物語』(原書は2018年出版)あたりが、コミックの芸術性と政治や歴史のシリアスさを融合させることで高い評価を得ているグラフィックノベルの顕著な例である。漫画の起源をめぐっては、文化史的アプローチと社会経済的アプローチとの間でいまだに説が異なる。前者では長い文化発展の歴史のみをたどる一方、後者では戦後の日本の驚異的な経済成長と漫画の発展が並行して議論されることが多い(Ingulsrud and Allen 2009)。これら二つの異なる命題について考察したり裁定したりするのは本稿の範囲を超えるので論じない。漫画の時代区分(例えば、12世紀の仏画であるか1950年代のグラフィックテキストであるか)をめぐる違いはあるにせよ、どちらのアプローチも漫画の「日本的」な起源を重視している、ということだけ述べておけば十分だろう。ただし、特に社会経済的アプローチにおいては、明治期以降の「アジア的」および「西洋的」なグラフィック表現によるさまざまな影響が取り沙汰される場合もある。しかし、漫画は単純に見えるものの、一般論として、しばしば公的な言説やイデオロギーを不遜に嘲笑し、逸脱し、さらには退廃をもって遇してきたと言っても間違いではないだろう。
1960年代後半に辰巳ヨシヒロ、水木しげる、つげ義春らがさまざまな形で開拓したいわゆる劇画は、日本帝国主義への日本人の健忘症的な姿勢や加担を批判し、戦後の経済発展主義がもたらした疎外感の増大をもテーマとした。1970年代には、萩尾望都、竹宮惠子、大島弓子といった作家たちによる少女漫画が台頭し、四角いコマ割りのような少年漫画の慣習を打破しただけでなく、セクシュアリティやフェミニズムといった主題も探求した。もちろん、漫画という形式そのものが、言語メディアとグラフィックメディアの組み合わせとして、その時代の支配的なイデオロギーを強化するために利用されることもある。例えば、1914年に創刊された十代の少年向けの漫画雑誌『少年倶楽部』は、軍国主義や日本帝国主義を支持し、戦時プロパガンダの一翼を担った。
実際、有名な『のらくろ』では、犬の兵士が臆病な豚として描かれている中国人を勇敢に打ち負かし(1931年)、『冒険ダン吉』では、若い英雄が太平洋の島で原住民の心をつかみ、白人の侵略者を打倒する(1933~39年)。他のウルトラナショナリストの右派漫画家としては、多作な小林よしのりがいる。彼は一連の『ゴーマニズム宣言』や歴史修正主義的見解を発表し、日本の歴史、特にその植民地支配や戦後史に関する公式見解と左派的解釈の両方を覆すほどの影響を与えた。例えば、『台湾論』(2000年)では、彼は日本の植民地支配のことをヨーロッパの「搾取主義」や「抽出主義」とは対照的な「開発主義」であるとして正当化している。また、彼はいわゆる「従軍慰安婦」の存在も否定し、彼女たちは日本兵に奉仕する「志願者」であったと主張している[2]。
中国本土では、日中戦争中の抗日活動を描いた「マンホア(漫画)」が、共産党支配を正当化するナショナリストのストーリーに織り込まれた。モーリス=スズキが指摘したように、「真実」や「普遍性」についてのコンセンサスが一切ないままに、歴史(そして他の形の知識)がますます消費され、論争の的になっているが、漫画もそうした数多くの媒体のうちの一つにすぎない。この点についてはまた後で触れる。
文化生産の有効な形態としての漫画についての議論に移る前に、日本の漫画が中国本土などの東アジアの隣国に与えた影響を軽く検討しておくのは有益かもしれない。日本や西洋の帝国は実際、この地域の文化的発展に極めて大きな影響を与えてきた。哲学から文学、芸術から建築に至るまで、植民地主義や帝国主義は、過去を現在へ根本的に位置づけし直し、「近代」と呼ばれる新時代を切り開くことにつながった。例えば、中国語の「マンホア」は、1920年代に日本の漫画からの借用語として生まれた同根語で、特に画家で随筆家の豊子愷(ほうしがい)による叙情的なモノクロームの絵のことを指す。豊の作風には、豊が東京滞在中に触れた日本の現代美術からの影響が見られる。豊は中国の芸術家からも刺激を受けており、日本や中国に導入された西洋風の模倣的リアリズムに対する不満もあったようだ(Crepsi 4)。さらに重要なポイントは、「マンホア」の芸術的表現が、日本や西洋の外国のモデルを模倣して再発明することを通じ、上海の活気あるコスモポリタンな娯楽誌に急速に取り込まれていったことである。日本からの影響は中国の「マンホア」に顕著に見られるが、その影響は決して一方向的なものではなく、互いに絡み合いながら発展していることも多い。特に豊の場合は、上海特有の半植民地主義やコスモポリタニズムの歴史の要素も入っている。
漫画とその視覚言語
漫画という形式は、読者と比較的容易にコミュニケーションを取れるだけでなく、豊富なサブジャンルや多様な主題に対応できるという点が特殊であると言えよう。端的に言えば、他のあらゆる媒体での表現と同様、漫画は、非常に多様ではあるが独自の視覚言語を持っており、それがグラフィックノベルのような類似の形態とは一線を画し、漫画家と読者との間に読書のコミュニティを生み出すことにつながっている。この視覚言語のいくつかの特徴は、大きな目、小さな口、そして尖った顎を持つキャラクターの描写に顕著に見られる。この視覚的雛形は一般に、ディズニーや映画から多大な影響を受けていた漫画家の手塚治虫に由来するとされている(Cohn 189)。また、アイコンとまではいかない様式化された規則、視覚的シンボル、比喩などの表現もある(時には背景に描かれる)。これらは、恥ずかしさや緊張を伝えるための巨大な汗のしずくや、さまざまな感情を表現するための目や口の形の単純な変化などにより、象徴的・感情的な意味を伝える。こうした図像学は、他のあらゆる言語や方言と同様、地理的に日本の外にいても学び、流用することができる(Cohn 193)。日本の視覚言語は、今日の世界中の芸術家に対し、ますます顕著な影響を与えている。漫画の読み方を学ぶ必要があるのと同様に、その視覚言語を習得できれば、芸術家たちは一貫性をもって自らの視点を伝え、幅広い読者を獲得できるようになる。漫画の視覚言語は、私たちを取り巻く世界についての議論を展開し、豊かな表現による説明を行う上で、「説得力のある」レトリックを構築することができる(Bogost 2007)。
欧米における漫画の人気は比較的最近のものだが、アジアでの漫画の影響力は、日本の植民地主義や帝国主義に起因する、より長い論争に満ちた歴史を持っている。日本の支配に対する反感は戦後も続いた。台湾や韓国のような旧植民地や、中国本土や香港のようなかつて日本に侵略された地域は、取られた対策や結果もさまざまだったが、日本の文化製品の輸入を禁止し続けた。
しかし、公式にはそのように規制されていたにもかかわらず、旧日本帝国領においては海賊版の蔓延により、日本の漫画、ポップミュージック、アニメの流通が進んだ。1960年代後半には、台湾で翻訳されて再版された漫画の海賊版が香港に広まった結果、現地の芸術家たちは、漫画的な長めのストーリーやカメラアングル、さらには大きな目や長い脚を持つ少女といった特定の人物の特徴を取り入れ始めた(Lent 299)。日本の子供向けアニメは香港、台湾、韓国のローカルテレビで放映されたが、例えば韓国では、『ドラえもん』のような人気番組が日本由来のものであることをなるべく隠すために、下駄のような日本に関連する視覚的要素は消去された。漫画やアニメのこうした「無国籍性」、あるいは岩渕功一(2002年)が「文化的無臭性」と呼んだ特徴が、アジア内外への日本の大衆文化の流入を促進したのである。
しかし、日本の大衆文化がソフトパワーの代表的な輸出品として、あるいは「クールジャパン」として知られるようになったのは、日本のバブルが崩壊し、産業界が海外市場の開拓に躍起になり始めた1990年代半ば以降のことである。中国がWTOに加盟し、非公式な海賊版に代わって正式なライセンス許諾が行われるようになると、日本の漫画やその他の文化製品は、この地域における大衆消費の主流となった。1990年代以降、この地域は間違いなく「リテラシー」を発達させ、読解力だけでなく、描くことや日本的な視覚言語への習熟が進み、漫画という形態も娯楽、情報共有、芸術の目的で広く使われるようになった。
近年では、漫画は学問の正当な研究分野として浮上し、教育目的に活用されることもますます増えている。漫画独自の特性は、生物学から歴史学、言語学習から社会科に至るまで、主にテキストベースの教育に対して効果的な代替手段を提供してきた(Toda and Oh 2021、Iida and Takeyama 2018)。漫画の視覚的な形式は、読むのが苦手な読者や、失読症などの学習困難を抱えている人々にとって、読書の魅力を高めるために役立つ。漫画はまた、複雑な考えを理解しやすいビジュアルやストーリーに分解して、難しい主題を生徒が把握しやすくすることができる。上述したように、歴史、文化、社会問題などを漫画で描けば、読者はこれらの分野についての洞察を得られる。ただし、漫画は「論争」を招くという性質も心に留めておくことが重要である。原爆の使用や日本による従軍慰安婦の搾取のような論議を呼んでいる問題についても、漫画は情報を提供して形を整えるだけでなく、歪曲して議論をそらし、さらには歴史的な根拠を否定する能力も持っている。だが、漫画の中には、複雑なテーマや道徳的矛盾を探求することで、読者に批判的思考を促し、共感力を育むものもある。
漫画、デマ、そして陰謀論
漫画は、親しみやすさ、明快な視覚言語、連続したストーリーテリング手法といった特徴を備えているため、デマの危険性を人々に教育し、デマに対抗していくために理想的な媒体であると言える。高齢者や社会的弱者を詐欺、恐喝、偽情報、その他の搾取や操作から守るためにも、教育的な取り組みが必要である。しかし、クラウドソーシングなど、人間の知識や専門性を利用するアプローチでは、多大な労力と時間がかかり、偽コンテンツの急速な拡散を効果的に防ぐことはできない。ますます多様化するニュースソースや情報源を使いこなすのに必要なスキルを向上させるためには、従来型の媒体と新しい媒体に関するリテラシーと批判的思考を身につけることが、誰にとっても重要なのである。しかし、陰謀論などのもっと複雑な形のデマの中には、騙されやすく搾取されやすい消費者を教育するよりも、対処するのが難しいものもある。消費者詐欺とは異なり、陰謀論は必ずしも金銭的利益を追求するわけではなく、政治的不安定を生み出そうという最終目標へ向けて、社会の分断と既成の制度への不信をまき散らす。陰謀論に真っ向から反論するのが難しいのは、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの言葉を借りれば、「真実によって嘘をつく」という手法が取られるためだ。反ワクチン運動で用いられているような陰謀論的物語は、実証的・科学的エビデンスに基づくものではないが、政府への批判としては完全に間違っているとは言えないかもしれない。諸国家は、自国民を騙し、傷つけてきた歴史もあるからだ(特に黒人やアボリジニのコミュニティに対しては医療実験も行われてきた)。
しかし陰謀論者の関心対象は、そのような残虐行為ではなく、政府の行き過ぎた行為の犠牲者として自分たちを演出することにある。陰謀論にある程度の真実が含まれている可能性を認めることは、特定の政党や運動の政治的目論見を支持することと同義ではない。むしろ、歴史的な「真実」や普遍主義を安易に受け入れてはならないというモーリス=スズキの警告に耳を傾けるべきであって、政治的な出来事へのアプローチにおいて常に「真実性」を追求し、陰謀論やその他の「フェイクニュース」をそもそも可能にしてきた歴史的状況を考察することを目指すべきであろう。デマの根本原因(それらは明らかに複数存在し、特定の歴史的文脈に依拠している)に対処しない限り、いくら教育や保護策を実施しても、周囲にあふれているデマの猛攻撃から私たち自身を救うことはできない。
Cohn, Neil. “Japanese Visual Language: The Structure of Manga,” in Toni Johnson-Woods (ed.), Manga: An Anthology of Global and Cultural Perspectives. New York: Continuum, 2010, 187–203.
Crespi, John A. Manhua Modernity: Chinese Culture and the Pictorial Turn. Berkeley: University of California Press, 2020.
Iida, Sumiko and Yuki Takeyama, “A Brief History of Japanese Popular Culture in Japanese Language Education: Using ‘Manga’ in the classroom,” East Asian Journal of Popular Culture. Vol. 4, no. 2, 2018, 153-169.
Ingulsrud, John, and Kate Allen. Reading Japanese Cool: Patterns of Manga Literary and Discourse. Lanham: Lexington Books, 2009.
Iwabuchi, Kōichi. Recentering Globalization: Popular Culture and Japanese Transnationalism. Durham: Duke University Press, 2002.
Lent, John A. “Manga in East Asia,” in Toni Johnson-Woods (ed.), Manga: An Anthology of Global and Cultural Perspectives. New York: Continuum, 2010, 297–314.
Morris-Suzuki, Tessa. The Past Within Us: Media, Memory, History. New York: Verso, 2005.
Toda, Yuichi and Insoo Oh (eds.). Tackling Cyberbullying and Related Problems; Innovative Usage of Games, Apps and Manga. London: Routledge, 2021.
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Iida, Sumiko and Yuki Takeyama, “A Brief History of Japanese Popular Culture in Japanese Language Education: Using ‘Manga’ in the classroom,” East Asian Journal of Popular Culture. Vol. 4, no. 2, 2018, 153-169.
Ingulsrud, John, and Kate Allen. Reading Japanese Cool: Patterns of Manga Literary and Discourse. Lanham: Lexington Books, 2009.
Iwabuchi, Kōichi. Recentering Globalization: Popular Culture and Japanese Transnationalism. Durham: Duke University Press, 2002.
Lent, John A. “Manga in East Asia,” in Toni Johnson-Woods (ed.), Manga: An Anthology of Global and Cultural Perspectives. New York: Continuum, 2010, 297–314.
Morris-Suzuki, Tessa. The Past Within Us: Media, Memory, History. New York: Verso, 2005.
Toda, Yuichi and Insoo Oh (eds.). Tackling Cyberbullying and Related Problems; Innovative Usage of Games, Apps and Manga. London: Routledge, 2021.
[1] 「歴史的真実性」とは、歴史家が自身の偏見と限界を認めつつ、過去を良心的かつ誠実に表現するための実践活動や取り組みを意味する。これを実現するには、厳密な方法論と多角的な視点へのオープンな姿勢が求められる。一般に客観的な現実や普遍主義を指す「真実」の追求とは異なり、「真実性」においては、過去をオープンに精査して議論する際の、歴史家の倫理的責任、方法論的厳密さ、および透明性が重視される。
[2] 「従軍慰安婦」とは、第二次世界大戦中に日本軍によって強制的に性奴隷にされた女性や少女たちのことを指す。こうした女性たちの多くは朝鮮半島出身だったが、中国、台湾、フィリピンなどのアジア各国から「徴用」された者もいた。彼女たちは強制的に、あるいは騙されて日本軍の売春宿で奉仕させられ、そこで虐待と搾取に苦しんだ。従軍慰安婦の推定数は、学者や研究者によって大きく異なるが、一般的には5万~20万人の範囲とされている。
[2] 「従軍慰安婦」とは、第二次世界大戦中に日本軍によって強制的に性奴隷にされた女性や少女たちのことを指す。こうした女性たちの多くは朝鮮半島出身だったが、中国、台湾、フィリピンなどのアジア各国から「徴用」された者もいた。彼女たちは強制的に、あるいは騙されて日本軍の売春宿で奉仕させられ、そこで虐待と搾取に苦しんだ。従軍慰安婦の推定数は、学者や研究者によって大きく異なるが、一般的には5万~20万人の範囲とされている。
執筆者
レオ・チン(Leo T. S. Ching)は、デューク大学アジア・中東研究学部の日本・東アジア文化研究教授。帝国研究、ポストコロニアル理論、大衆文化とグローバリゼーション、群島・島嶼研究などのテーマに取り組んでいる。著書:『ビカミング〈ジャパニーズ〉植民地台湾におけるアイデンティティ形成のポリティクス』、『反日:東アジアにおける感情の政治』。