クイックアクセス:

コンテンツへの直接アクセス 最初のレベルのナビゲーションへの直接アクセス

戦争と日々のこと

ロシア軍の空爆によって破壊された、ハルキウにある保険会社Russia社の建物
Foto (Detail): Sadak Souici © picture alliance / ZUMAPRESS.com

ウクライナでの戦争を茫然と見守る私たちに、この戦争は何をもたらすのか。ロシア軍の侵攻が始まった日について、クロアチア人作家マルコ・ポガチャルが個人的な思いを率直に語る。

マルコ・ポガチャル

危険な毎日。毎時間、誰かが死ぬ。日記も同じように危険だ。どのページにも、ミスが潜む罠がしかけられている。目にはほとんど見えない幼虫から、遅かれ早かれいつか必ず、暴力的な死が孵化してくる。

1914年8月2日。カフカは – 不幸で、精密で、気難しいカフカ、文学を、私たちの中にある凍りついた海に振るうための斧と考えていたあのカフカは、頻繁に引用されるあの短い字句を日記に書き込んだ。「ドイツがロシアに宣戦布告。午後は水泳教室」。それは第一次世界大戦への後戻りのできない道が開かれた時だった。歴史を根本から揺るがし、私たちが今知っている世界へと私たちを連れてくることになる一連の要因ときっかけが、複雑に絡まり合ってその頂点に達した時だった。第一次世界大戦は、第二次世界大戦の序幕となり、その二度目の大戦で、カフカの民族は、煙 – ユダヤ人が死のフーガの中で自分のために掘ることを強いられた「宙の墓」- になる運命の元におかれた。この大量虐殺と、それに続く沈黙の冷戦から生まれた地政的状況がもたらした結果が、私たちが今生きている現実だ。1914年のプラハのあの暑い午後以降、世界はもちろん根底から過激な変化を遂げた。ある意味で世界は、私たちと共に、その見かけの純真さを失ったのだ。




あまりに明白なことを強調する必要はない。この日記を書いた時、カフカはこれから何が起こるかを知るよしもなかった。2022年2月24日に何気なく日記をつける私たちには、1939年9月1日に同じ理由で紙に向かっていた人たち同様、カフカと同じ贅沢はできない。これからも決してできないだろう。私たちがいるこの世界はグローバルで、グローバルに悲惨で、20世紀の経験でズタズタになっていて、刹那的で、ネットワークでつながれていて、核の脅威を示す赤い小さなランプで照らされた世界なのだ。置き去りにされ忘れ去られる一方の総称である社会としての私たちが、次に目覚めた時には絶望的に変わり果てた姿で見るかもしれない世界なのだ。

沈黙の石


私がこの日をどのように、そしてなぜ記憶に留めるかは、私にとっての重要性を持つことでしかない。それに対して私たち皆に関係するのは、とりわけ、この日の犠牲となった人々がこの日をどのように体験したか、そして今なお体験し続けているかである。彼らが、それまでに何かの犯罪で命を落とすのでなければ、だ。なぜならこの歴史の暗い輪の連なりが到達する先ははっきりしている。それは名前を持つ一人一人の人間がその命を奪われること、そしてその後、沈黙する石に彼らの名前がつけられることなのだから。
2001年9月11日、アメリカの剥き出しの中枢が攻撃されたというニュースが世界を駆け巡った時、自分がどこにいて何をしていたかを、私ははっきり覚えている。2022年2月24日が、さらに強烈に私の記憶に残るだろうことは、すでに明らかだ – 生々しい不安があるからだ。今の状況は、この記憶を済んだこととして押しのけ、取り除くことも、これをグローバルなトラウマに任せ、日常の些細な事柄で押し流すことも、この先長く許してくれないだろう。日常的な些細なことも同様に大量の死者を伴うが、私たちはその存在を常に意識しているわけではない。なぜなら、そうした事実に目がいかないようにすることは、私たち自身の – 皆知っている通り多かれ少なかれ – 普通の生活の前提となるものだからだ。普通の生活。それがまさに今、ウクライナの至るところで、誰かから奪われている。
 

普通であることの恐怖

私はこれまでの人生において、何らかの偶然や一連の状況のおかげで、自分の功績など何もないのに自分は信じられないほど恩恵を受けている、と感じたことが多くあった。それも、白人のヨーロッパ人男性で、中流階級として通用する家庭で育った、という文脈以外の場面でもそうだった。この恩恵の享受は続いている。なぜなら、ウクライナの町に砲弾の雨が降り注いでいる間、私は数ヶ月の予定でスイスに滞在しているのだ。1815年以降中立国であり、その地位をうまく活用して、欧州による制裁措置にイヤイヤながら参加した国。報道によれば、しっかりメンテナンスされた核シェルターを十分に保有している世界で唯一の国。だから、私たち皆の人生を、私たちがそれを意識するか否かを問わず、根本から変えたこの日についてのこの記述は、許し難いほどに快適な、一歩間違えば忌むべきシニシズムとなる視点から生まれているのだ。

この視点のおかげで私は、暖房にしっかりロシア産のガスが使われているかもしれない暖かな部屋に座り、メモを取り、手に入るニュースを躍起になって追うことができている。私は毎日、ウクライナの友人たちと連絡を取り続けようとしている。悲観的で地政的で、戦略的でイデオロギー的なブラックホールの中をさまよっている。それぞれが独自のテキストを要求するブラックホールだ。そうしたテキストで私は、自分がどれほどの間違いを犯していたかを思い知る。本当にこんな戦争になるとは、私は最後の最後まで思っていなかったのだ。私は瞬間的な恐怖から記憶の中に押し込まれる – 私の知っているウクライナへと。私が鉄道で縦横無尽に旅して回ったウクライナ、私の本が翻訳されているウクライナ。今でもとても多くの知り合いが、友人たちがいるウクライナ。彼らは武器を取るか、私が乗ったのと同じ列車で国を離れることを余儀なくされている – つまり、私の考えるあの平和な、のどかな、素晴らしい、雄大なウクライナが、私たちの目の前で消えているのだ。周囲で人々と町々が消えている間も暖かい部屋の中にいて、満腹で、無力感に襲われている人間は、一体どういう気分になればいいのだろう。2022年2月24日以降、この人間は(こんな言い方をするのを許して欲しい)まるで糞になったような気分でいる。
この人間は、何度も繰り返し、どうしても自分自身の過去に戻ってしまう。それは、よく知られている通り、忘却に心地よい効果があるからだけではない。2022年2月24日は、例えば1991年9月15日よりも強い、より恐ろしい印象を私に残した。それは私の故郷の町が – 幸いにもほんの短時間だったが – 砲弾の攻撃にさらされた日だった。自分でもわかっているが、これもまた私の受けた恩恵の標本の一つだ。私は空襲・全体警報が鳴り響いた時、高層アパートの地下の、人で溢れた防空壕にいた。私は小学生で、カフカの世界のように、まだ見かけは無垢だった。不安には合理的な土台がなく、人生は永遠の今のなかにあった。明日などなかった。私はまだ黄金の時代にいたのだ。実在する、唯一の黄金時代に。自分の死、他人の死に対する不安が訪れる前の時代に。それから30年とちょっとが過ぎた。時は、私の人生に堂々と踏み込んできて – そして全ての幻想を吹き飛ばした。今の私には、こうした日々の後に何がくるかがわかっている。誰もが忘れたいと思うような日々、だが、忘れることは誰にもできないだろう日々。要するに私たちにはその権利がないのだ。その恩恵を手に入れた者は、まだ誰ひとりとしていないのだ。
私たちは死者を記憶に留めなければならない – そして、もっとはるかに大切なのは、あらゆる方法を使って、生きている者のもとにあることだ。

この文章は2022年3月3日に執筆された。 
特設サイトに戻る